時代劇や歴史好きな方なら、「服部半蔵」関係かと思ってしまいますが、江戸時代、この坂には服部権太夫の屋敷があったので服部坂と言います。幕末の切絵図で確認すると、確かに「服部権太夫」の表記があります。

寛文10-13年(1670-73年)新版江戸大絵図で服部と確認でき、
元禄年間(1688-1703年)江戸大絵図には服部権太夫の表記があり、この家、代々、服部権太夫を名乗っていたようです。
権太夫ってミドルネームですから服部権太夫◯◯と名乗ったのでしょう。今の時代、権太夫と名乗るとしたら、コメディアンかゴン太くんだげです。
明和江戸図(1771年)にもハットリの表記があり、
文化江戸図(1811年)ではハットリ坂の表記があります。
三百数十年前に服部権太夫さんが住んでから、現在までずーと「服部坂」。別名も聞いたことがありません。
坂道としては疑惑も変遷無し、面白味に欠けます。
服部坂はイマイチ、メジャーではありませんが、歴史を調べてみると、見どころが意外と多いのです。
坂上から見ていきましょう。
新渡戸ハウス
坂上は二股に分かれていますが、東側の道を行くと、旧5000円札(マギー司郎に似ている)でおなじみ、海外でも名著「武士道」で有名な新渡戸稲造旧居跡があります。新渡戸ハウスと呼ばれました。

新渡戸稲造旧居跡 文京区小日向2-1-30付近 新渡戸稲造 文久2年(1862)〜昭和8年(1933)教育家・農学博士・法学博士 南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)上京した。 明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。 明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。 明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は、学生たちに深い影響を与えた。 日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)に国際連盟事務次長となり、”連盟の良心”といわれた。昭和2年(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。 当地は、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。 文京区教育委員会 平成25年2月

長すぎる説明板なんですが、明治39年の地図をみると説明板(赤)のある辺りに建築物はありません。トイメンの大きな建物(青)のほうが写真で見る限り、それっぽいんですが、どうなんでしょう?
不明です?。
ついでに、もう少し登って行くと、小日向台小学校前に明治の測量遺産「几号水準点の補助予備点」なるものが道路に埋まっています。
地図オタしか興味がないと思いますが……。
服部坂の坂上から降りていきます。


意外とお家の塀の形状が昔と変わらなかったりします。
ダイハツミゼット?懐かしいです。
小日向神社
明治になっても服部坂の服部さんちと思いきや、
あれっ?服部權太夫屋敷跡地には小日向神社ですとな!
この神社、神仏分離の煽りを受け、どこからか移転してきたようです。

小日向神社は、氷川明神社と音羽(今の今宮神社の場所)にあった八幡坂の由来になった田中八幡神社とを合祀して、明治2年に小日向神社となったと云います。
氷川明神社はどこから移転してきたのか、探してみると……。
なんと、
移転前の姿が江戸名所図絵に描かれているのです。

服部坂から東に200メートルくらいにある日輪寺の西側の丘に氷川明神社があります。氷川神社があったということは神田上水ができる前、目の前は田んぼだったのかぁと妄想しつつ、よくみると崖道(赤矢印)があります。
これ今も残っているのです。
この崖道を登って右に行くと小日向公園。

近代の砂利採掘で地形が変わっているようですが、この小日向公園が氷川明神社の境内の一部だったと思われます。当時の地形がわかる明治の地図でみると……。



また、幕末の切絵図には
「二ツノ石橋ヲ双竜橋ト云」
と書き込みがあり、
氷川明神社、日輪寺は別々の橋を持っています。切絵図でも木橋と石橋は描き分けています。
江戸名所図絵にも神田上水に架かる二つの橋が描かれていますねぇ。
あれっ?
石橋ではなくて木橋のような(?_?)。
そーです、江戸名所図会は1830年代の観光ガイドブック、この切絵図、尾張屋刊江戸切絵図は嘉永7年(1854年)刊行ですから、1830年以降に石橋化されたとわかります。
余談ですが、日輪寺境内には仏像ではないおばあちゃんの像が唐突にあります。「甘酒婆」と云い、妖怪かぁ(*’д’*)と一瞬思うのですが、やさしそうな表情です、、、

日輪寺には甘酒婆地蔵という地蔵がある…(略)…ある老婆の甘酒が風邪に効くと評判になり、その老婆の死後、遺徳を忍んで建てられた像とされている。別説では、かつて日輪寺の近く甘酒を売っていた老婆がひどい咳に悩まされ、同じ病気の人々を救いたいと言い残して死んだという。この地蔵は、寺の住職が老婆の姿を刻んだもので、やがて咳に悩む人たちが甘酒を供えて祈願するようになったのだという。 ウィキより
確かに甘酒は咳に効きそうです。
黒田小学校
服部坂を少しは有名にしているポイント、この坂には名門「黒田小学校」があったということです。黒田小学校、文京区立五中、今は文京総合福祉センターと変遷しています。
黒田小学校は明治11年(1878)第四中学区26番公立小学「黒田学校」としてここに設立されています。当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(黒田官兵衛の子孫、旧福岡藩主)が明治維新の功績による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区へ学校設立を請願しています。東京府はその篤志を永久に伝えるため、校名を黒田学校としました。卒業生の中には永井荷風、黒沢明などがいます。昭和20年空襲で校舎は全焼し、翌年3月31日をもって黒田小学校は廃校になり、輝かしい68年の歴史を閉じました。

幼少のころ、永井荷風先生は金剛寺坂の実家から、服部坂の黒田小学校に通っていたことは金剛寺坂の項で紹介しています。黒澤明先生も幼少の頃、通っていました。

児童の古写真もたくさん残っています。

面白いのは子供たちのエプロン姿。
制服かと思いきや、セーラー服の子もいます。
エプロンは当時流行りのファッションだったようです。
女子組というのも時代を感じます。当時の男子組はというと、
学生服か着物です。
余談ですが、幼稚園児はどうだったかというと……

男の子も女の子もみんなエプロン姿。
時は流れて戦時下の黒田小学校(黒田国民学校)……

昭和12年、木造校舎から鉄筋校舎へ。
校庭は舗装、砂場、プール付、全館スチーム暖房完備って、当時としては一流です。
戦時下ゆえ、みなさんモンペを履いてます。

現在、この一角は文京総合福祉センターになっていて、その工事中、巻石通り(神田上水を石で巻いて暗渠にしたので巻石)に神田上水遺構が数々発見されています。
なるほどぉと、それはわかるのですが、巻石通りを西に行くと、気になるスペースがあるのです。
これも神田上水の遺構なのでしょうか?。
これ、ずーと前から歩道のココだけ広くなっているのです。
長い巻石通りのここにだけ休憩スペースがある。
気になります。
明治の地図をみると……。

お寺の門跡、門の内側から寺領だったのです。
場所もスペースもピッタリ一致。古地図はタイムマシンです。
武家由来の坂道は、他にもが多々あります。
武家の名がつく坂ー外記坂と消えゆく朝陽館本家
武家の名がつく坂2ー忠弥坂はあったのか?
武家の名がつく坂3ー壱岐坂
安藤坂の大きなカーブはなぜ?
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