「開運坂」をググると「名前の由来はわからない」と出てきます。興味深いです。お江戸の切絵図をみても開運坂?田んぼばかりで何もありません。
なるほど、明治の開削かと思い、明治初期の地図をみても無し。明治後期にやっと、出現します。

右:明治41-42年1万分の1測図。赤が開運坂
よくみると、水窪川・音羽川暗渠ルート上ではありませんか。坂道も好物ですが、暗渠も大好きです。

川跡を遡って、走ります。
(暗渠=覆いをしたり地下に設けたりして,外から見えないようになっている水路。対意語は明渠)
興味深い暗渠道ですが、はしょってご紹介します。
音羽川
音羽川は東池袋、サンシャインシティ(旧巣鴨プリズン)辺りから発していた水窪川の下流部です。
そーです。文京区音羽地区を流れていた川で昔はこの川の流れを利用して紙漉き産業が盛んだったのです。
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名坂の鷺坂、八幡坂、鼠坂の下を流れていた川なので、私にはおなじみ(^_^)。

暗渠の出口からラン開始。
暗渠の終点は神田川です。
江戸川橋交差点の橋の上からみると大きな穴を確認できます。
桜木町

旧桜木町の脇から入っていくと、立派すぎる崖を見ることができます。江戸時代のとある人の日記に「桜木町辺りの岡場所は久世山(久世大和守下屋敷)の崖にへばりついていて、嵐でも来たら潰れてしまうのではないか」と心配しているくらいの崖です。
そーです。桜木町には岡場所(幕府非公認遊郭)があったのです。
大日坂のギャンブルとも関係ありそうな町なのです。途中、昭和の名坂、鷺坂を見てもいいかもぉ。
以下のリンクで名坂をご確認ください。
大日坂
鷺坂
八幡坂
鼠坂
やや行くと八幡坂の項でも触れたように、道路に石橋の遺構が埋まっています。いつ見てもイイですね〜。こうゆうのって暗渠道ならではの楽しみです。

どんどん行くと、行き止まり?
絶望的な閉塞感が漂います。

大きな敷地の鳩山会館にぶつかってしまうのです。
音羽通りに出て鳩山会館を迂回、また暗渠道に入れます。
【追記】 2017年7月、工事で平地になり、鳩山会館に通じる坂の下から音羽川暗渠のトンネルが出現しました。![]()
旧桜木町からここまで崖、崖、崖。都内では珍しい崖の宝庫です。この崖下の川水で紙漉きをしていたのです。
しばらく行くと御茶ノ水女子大学方面から降りてくる通称、コクリコ坂に当たりますが、まだ先が見えます。

通りを渡ります。
暗渠道には分岐点がありますが、だいたい下の方、あまり急に登らない道です。

そして、車両が入れないくらい細く、ゆるいカーブ、ランにはもってこいの道なのです。
旧東青柳町
どんどん道なりに進むと旧東青柳町です。音羽、桜木、青柳って風情のある名ですよねぇ。旧町名案内をみると……。
昭和41年までの町名 もと小石川村の内であった。5代将軍綱吉が、護国寺を建立して元禄10年(1697年)護国寺領となった。幕府は奥女中の青柳という者に家作を与えた。それで、町名を青柳町としたという。
そう、音羽、桜木、青柳って五代将軍の生母、桂昌院さまの奥女中の名前なのです。

五代将軍綱吉公が、生母桂昌院さまの願いで創建した護国寺の門前町。お江戸の雰囲気ありありのネーミングです。
幕府の記録書「御府内備考」には
幅九尺…略…水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より当所(東青柳町のこと)え入、音羽町裏通り江戸川え流出申候…略…流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候
とあります。下流部は「鼠ヶ谷下水」と云ったのですね。鼠坂があるのも納得できます。
旧東青柳町は花街だったようで、古い建物があります。
このお宅は料亭だったのかな?
三味線、小唄が聞こえてきそうな風情があります。
このあたりだけ、暗渠は住宅の中へと入る部分があるのですが、切絵図でも屋敷内を通っています。
グーグルマップをみると、お家の中に大きな池があり、川の名残を利用したようです。
富士見坂手前で大きくカーブ。富士見坂(不忍通り)の向こうには、川っぽい細い道が見えます。
ここから富士見坂へとずいぶんと登っています。なぜでしょう?

昭和初期の地図に市電がみてとれます。市電を登らせるために富士見坂に盛土をして長く緩やかにしたのです。
しかも、明治の音羽川をみると、橋があり、川に崖記号を見いだすことができます。ここは谷になっていたのです。

ここからは水窪川の暗渠道。豊島ヶ丘墓地の脇で崖はありませんが、クネクネの細道。これぞ、もと川の証です。
ここからは私も初体験です。
なんだか、凄いトラップが隠されているような道筋です。
迷い込んだ車は絶対アウトです。チャリでも怖い。
こんなポールが道の真ん中にあるなんて。
吹上稲荷神社
やや行くと、マジっビックリ!
暗渠道に鳥居が!鳥居の下を流れていた川か!?(*’д’*)

明治の地図をみると、まだ神社の表記はありませんでした。
大正期の地図に神社記号と鳥居の表記が現われます。
ということで、明治45年に移転してきた吹上稲荷神社です。
御由緒はググって頂くことにして、
ここの狐さん、ニッコリ出迎えてくれます。
あれっ!もう一匹には目がない!
そんなことはないのです。よーく見ると、私のように、ほっそーいお目めがあります。
左右非対称なのです。顔文字の目みたいです。
神社を出て、鳥居をくぐり、暗渠は坂下通りの東側へと繋がっています。暗渠道の雰囲気あります。
うわっ発見!これこそ、この道が川だった証が……。
古い石垣の上に大谷石の石垣。その上がブロック。お宅の入口に後付け階段。
ここ川だったので、川側に入口ってありえません。
脇にはイケてる階段坂。
登ると、階段にマンホールが!開閉可能なようです。
幾層もある住居の中層家屋の下水のようです。ということはこの階段坂も後付け?階段から階段へ繋がるお家の入口もあります。たまりません。
また、暗渠道を遡っていきます。三叉路!。
どの道を行けばよいのか?、しばし悩みます。
一度、左の道を行き、暗渠の雰囲気無さから引き返し、真ん中の道へ。正解!寂しい暗渠感があります。
また、不思議なほそーい階段!登るとお家の裏庭にでるだけです。
背丈の大きい人はくぐるのも大変でしょう。
うわうわ、パイプから水が染み出ています。
細い道、クランク続きでワクワクします。
ここから坂下通りに出ると交番があり、
向こう側には開運坂が見えます!到着!
大正期の地図から交番の表記(×印)が現われます。
開運坂の由来とは

明治期開削の坂なので当然、最初は坂名が無かったのです。
ググっても「坂名の由来はわからない」となっていたので、
妄想が広がります。
真新しい坂道説明板をみると……。

この坂名は、講道館の創始者で、教育家の嘉納治五郎(1860〜1938)によって名付けられたとされる。かつて坂上北側に講道館の道場があり、開運坂道場と呼ばれた。また、坂上突き当たりには嘉納治五郎邸もあった。 講道館とは、嘉納治五郎によって明治15年(1882)に創設された柔道の道場であり、柔道の研究教授とその普及振興をはかる教育機関として発展し、現在に至っている。 開運坂道場は、嘉納邸に隣接した場所に下冨坂道場(小石川区下冨坂町。現、文京区小石川一丁目)の建物を移築し、明治42年に開場した道場である。 開運坂道場には、全国から多くの柔道家が集まり研鑽が積まれた。また、大正期には、ここで女子への柔道指導が本格的に開始された。 その後道場は、昭和8年(1933)に水道橋へ移転した。 平成26年3月 文京区教育委員会
あっ、あれっ?そっそう、嘉納治五郎先生が名付けたのね。
最近、由来が解明したのね、ふーん。
ここまで坂の由来を考えつつ、
妄想の翼を拡げて飛んできたのにぃ〜
ヽ(`Д´)ノ!
まっいっか、一件落着!
講道館開運坂道場跡へ行ってみましょう。
この辺りが講道館跡なのですが、どんずまりは公園です。
鍵が閉まっていて入れないってぇ。ならば坂上から回り込んで。
あれっ?ここも鍵が閉まっています。なんだかなぁ(?_?)
公園なのに入れない?何かわけがあるような……。
坂下からトライします。

やっと、入れる入口がありましたぁ。ほっ。
ふと気付くとこんな看板が……。
違法な撮影?こっこれかぁ……。
妄想の翼が拡がってしまいました(≧∀≦)。
【追記】講道館開運坂道場の謎

講道館開運坂道場とされる古写真。開運坂中腹にあるのですが、当時の地図でみると講道館は奥まったところにあります(?_?)。これって謎です。
この謎が解けた!
以下のリンクをご覧ください。
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