現在の坂名は「庚嶺坂」となっていますが、この坂、別名が多いのです。
若宮坂、幽霊坂、行人坂、祐玄坂、祐念坂、唯念坂、新坂と、
坂別名コンテストがあれば上位入賞間違い無しです。
しかし、こんなに別名があるのでしょうか?そこが問題です。
庚嶺坂の最初の名は新坂?
この庚嶺坂、私の考察だと、最初の名は間違いなく「新坂」。
江戸初期、坂下にあった運河から荷揚げするために新しく作られた坂なのです。神楽坂開発のため、大量に物資が必要だったと考えられます。
正保年中(1645~1648年)江戸絵図を見ると坂上が非常に曖昧で、どの道にも接して居らず、この頃はまだ開削途中だったのかもぉ。
または坂道を作りながら、周辺を宅地開拓していったとも考えられます。
走って登れば、わかりますが逢坂よりずっと傾斜が緩いのです。
尚且つ、道幅がそれほど広くなく、人が大勢集まる坂、商業の坂でもないとわかります。
当初は神楽坂デベッロプ、宅地開発のための坂道、宅地が整備されれば、その土地に必要な物資を運ぶための輸送路となっていったのでしょう。

江戸初期、開発途中のこのエリア、武家地となっています。
坂下には水路があり物資輸送の道だったことがわかります。

幕末近くの嘉永七年の江戸切絵図でさえ「シンサカ」と表記されています。疑う余地はありません。
別名、若宮坂について
地図をみると、いつの時代も八幡様があります。

この坂には若宮八幡宮(神楽坂若宮八幡神社)があるので「若宮坂」。江戸後期は「若宮町」もあります。
これも納得できる別名です。
若宮八幡宮の御由緒では
神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは唯単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。 10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。 その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌が江戸城鎮護、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。
となっています。これが本当だとすると、鎌倉時代から在り、坂道より古いと云うことになります。

江戸名所図会にも紹介されていて観光スポットだったようです。
この絵、面白いことに周辺に武家屋敷が多く描かれています。右下には武家屋敷門もあり、町人の門前町ではないということがわかります。武家屋敷地で武士に信仰が厚かったのでしょう。お遊びの要素(芝居小屋や弓矢場など)が全く無かったようです。
いつも寺社はテーマパークだと言ってきた私にとってはチョット拍子抜けです。お武家は表面上、お固い。
正保年中(1645~1648年)江戸絵図でも、八幡の表記があります。
坂道の開削と共にどこからか移転してきたとも考えられますが、この坂の出来た江戸初期からここにあることは確認できます。
ところで庚嶺坂の庚嶺って?
「庚嶺坂」なぜ、こんなに難しい字なのでしょうか?。
江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、 他にも坂名の由来は諸説あるという(御府内備考)。 別名「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。
坂道説明柱にはこのように書かれています。
これは疑惑の対象です。
二代将軍秀忠公が命名したのなら、いつの時代もその名で呼ぶはず。将軍命名の坂なのに別名なんて恐れ多い!
しかも、秀忠公が行ったこともない、見たこともない中国の梅の名所を例えに出すのでしょうか?。
御府内備考(ごふないびこう)にそう書かれているのは事実としても、これは逢坂と同じように、暇な知識人階級が作ったお話と断言してしまいます。
御府内備考とは、江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕府は『御府内風土記(ふどき)』の編集を開始し、書院番士三島六郎政行を主任として、29年成稿した。この風土記は1872年(明治5)の皇居火災で焼失してしまったが、編纂(へんさん)の備考として整理された資料集が『御府内備考』として残された。 調査が行われたのは文政8年(1825年)から同11年(1828年)。
御府内備考は、その土地の名主が上申したことをまとめて、書院番が書いたものです。
名主が言ったことが正しいとは言えないことが多々あります。
名主にもよりますが、幕府に言いづらいことはフィルターをかける。または幕府に対して言い逃れができる表記。そんなことが多いのです。
「二代将軍秀忠公」というのは坂が開削された時期なので当たっていますが、わざわざ、将軍がここに来て中国の梅の名所を思い出して命名するってありえません。
しかも、とんでもなく難しい字で。
さて、それでは何にフィルターをかけたのでしょうか?
庚嶺坂、ゆれい、ゆーれい……そうです!幽霊なのです!幽霊坂が本名です。
幽霊坂の謎
幽霊坂は文京区の二つの幽霊坂の項で書いたように、人を寄せ付けないための危険サインでもあるのです。

時は流れて、1670年代、神楽坂の武家地開発も終わり、坂上の道も整備されています。
坂上からも物資が、揚場・軽子坂経由で届くことになると、この坂の存在意義が薄れ、あまり使われなくなったのでしょう。
「江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があった」……
これはあまり使わないので坂が森林のようになり、薄暗くなったと解釈できます。
そうなると気味が悪くなり、武家地だけに変態武士、不良武士が出てきたりして、「辻斬りにでも会うんじゃねっ?」と人が寄り付かなくなります。何か事件があったのかもしれませんねぇ。
いまでも人、車両ともほとんど通りません。景観は良いのですが。
幕末の切絵図でよくみると
武家屋敷の利用価値が無さそうな不自然な三角形の区分け(A)と、無記名のトイメンの空地が存在しています。
ここは崖で、森林のようになっていたかと想像できます。
地形的には斜面がキツく、カーブしている部分。あやしい。
なんか臭うゴミ坂臭。ここにゴミ穴を掘り、ゴミ捨場にしていたとしても不思議ではありません。
もしかすると、あまり大きくない敷地の武家屋敷からもゴミが出ていたかもしれません。
幽霊坂は危険なところ、または不潔なところに子供を近づけさせないためのサインなのです。
梅林というのも匂ってくる。ゴミ坂だけに。
梅林がゴミ捨場を目隠ししていたのかもしれません。カーブ自体も目隠しにはもってこいです。
坂下の番所を対岸の番所と比較してみます。

対岸には番所が4つあるのに、神楽坂側は幽霊坂の下(赤矢印)しかありません。
坂上には若宮町(江戸初期の名は御小人町)もあるし、この番所のお仕事はと考えると、とっても怪しいです。
もしも、ゴミ坂だった場合は、ゴミ当番が幽霊坂からゴミを持ち出し、舟河原橋まで大八車で持っていき、そこから船で永代島まで持っていったと考えられます。
明暦元年(1655年)正宝事禄にある町触れ 町中の者は川の中、その周辺にゴミを捨ててはいけない。今後は船を使って永代島へ捨てに行きなさい。ただし、夜間のゴミの持ち出しは禁止し、昼間だけにすること。
私にはへんな性癖があって、川の近く、番所がある、別名がある、坂上に町人地がある、などの証拠が揃えば、ゴミ坂かと疑ってしまいます。
当時、世界一衛生的な都市だったと云われるお江戸。ゴミ収集システムが整っているということは誇るべきことなのに、今は過去を隠している坂が多いです。
怪しいのは確かですが、それを立証する手立てがありません。
タイムスリップしたら、ココ見てみたいものです。
庚嶺坂、唯念坂、ゆう玄坂などは幽霊坂にフィルターをかけた名前で、行人坂は唯念、ゆう玄なんてぇお坊さんの名前を使うことから出てきた別名です。
確かに「新坂」では同じ名が他に多すぎて、別名をつけないと区別できなくなりますよね。
不気味なイメージが付きまとう幽霊坂と呼びたくなかったのか、言葉遊びをしていたのか。
暇なお武家が坂の名前をいろいろ考えていたようです。
ロマン香る「逢坂」よりも出来の悪いネーミングですが、数で勝負しています。
妄想が激しくなりましたが、こんな古写真があります。

関東大震災で倒壊したお堀対岸の牛込駅の写真ですが、神楽坂側が写っています。確かに、森が多いようです。
明治の初期の地図をみると

祐源坂?まだまだあった別名!
源氏ゆかりの若宮八幡に掛けたようです。
これが一番いいネーミングのようですが、やはり言葉遊び。
坂別名コンテスト優勝間違い無しです。
この坂は神楽坂、軽子坂、逢坂と深い関係があります。
以下のリンクから、神楽坂周辺をご参照ください。
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ゴミ坂に関してはこちらをご参照ください。
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庚嶺坂(ゆれいざか)グーグルマップはこちら
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