東京坂道界の一大メジャー、神楽坂のすぐ東隣の軽子坂。神楽坂が商業の坂なら、軽子坂は運輸の坂として発展してきました。

この軽子坂、古鎌倉街道だったとも云われ、神楽坂よりも古い歴史があります(神楽坂は江戸初期に武家地として開発)。
文献では、軽子坂は室町時代から存在が確認されています。
まずは江戸時代の運輸の坂道としての歴史を見てみましょう。
軽子坂と揚場

江戸切絵図では軽子坂、揚場町と番所が表記されています。

江戸名所図会の神楽坂のページの端に登場しています。
揚場は舟荷を積み下ろししたところです。
軽子坂は荷揚げされた荷を運んだ坂道で、運送人夫のことを「軽子」と呼んだことから「軽子坂」の名が付きました。この絵、木戸と木戸番所が描かれていますねえ。荷も積んであります。運送人夫「軽子」の古写真も残っています。

このようにして人力で荷を運んだのです。
このような運び方では逢坂の登りは相当キツイ。新坂(庚嶺坂)を作ったのも納得できます。
神楽坂に比べて軽子坂のほうがゆるい登りなので自然とこちらが輸送路となります。
飯田橋駅前には揚場を糢したという、せせらぎの公園があり、その中で滝を糢したような石組みがあります。
揚場を再現したというので滝ではなさそうです。なんでしょう?

牛込御門、牛込橋(今のJR飯田橋駅神楽坂口)の下に関があったのです。あの造形は関を表現していたのです。
この関があったのでここから先へは船で進めません。なので江戸初期、お堀に並行して水路があったのです。
いつも利用している駅前の造形物、こんな意味があったとは知りませんでした。資料を調べると、浮世絵にも描かれていました。

関から水がどんどん流れています。ドンドンと音を立てて流れているので、通称「どんどん」。
水が滝のように流れているではありませんか。
よくみると番所、木戸、そして「茗荷屋」という舟宿から赤い扇子をもった粋なお大尽とお女中が舟に乗り込もうとしています。
ということは水運輸送基地というだけでは無かったようで、水上レジャーの拠点でもあったわけです。


牛込揚場の碑
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。 昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。 小濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。 昭和59年(1984)3月 東京都
自転車駐輪場のこんな目立たないところに碑があったとは気が付きませんでした。飯田濠は今では暗渠になっています。
せせらぎの公園の生垣が途切れているところもあります。なんでしょう?

これは船着場の場所を表現しています。
何気なさすぎる演出なので全く気付きませんでした。
あれっ⁈、また、こんなところに祠が……。
延命地蔵尊

飯田橋駅の駅ビル「ラムラ」の前庭にひっそりとある祠、気になります。
飯田壕と呼ばれたこの辺りの洪水、河川工事、お堀の工事で亡くなった人々を供養したものです。飯田壕の再開発にあたり点在していたお地蔵さんを合祀したとのことです。
明和(1760年代)の年号が見えるお地蔵さんもあります。洪水もあり、再開発工事が必要だったのです。よくよく考えれば、神田川の流れを人工的に曲げて外堀へ水を供給したものなので、暴れ川の神田川、洪水を引き起こして当然のように思えます。
なお且つ「どんどん」と呼ばれた関はお掘の水位調節の役目をしていたので、一旦オーバーフローしたら洪水になりかねません。地形的な変遷、この祠の意味がわかると、なるほど、と思いつつ、手を合わせました。
明治の地図をみると

明治後期、全く聞きなれない甲武鉄道の飯田町駅と牛込駅(赤矢印)。
こんな駅があったのです。
明治後期に水上輸送の揚場から飯田町駅操車場での貨物にバトンタッチしていく途中のようです。
飯田橋駅は当然、まだありませんが、よくみると揚場のところに引込線がみてとれます。
飯田橋駅近くの目白通りに「甲武鉄道 飯田町駅」という碑が建っています。
飯田町駅の引込線があった辺りには鉄道を示す線路らしきものが歩道に埋め込められています。
ここにも何気ない演出!
今では大都会ですが、懸命に歴史を残そうとしています。
甲武鉄道とは、
東京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道(動力=蒸気のち一部区間は電気を併用、軌間=1067mm)を保有・運営した。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により同年10月1日に国有化され、中央本線の一部となった。 ウィキより
江戸城の外堀に沿って走っていた私鉄ですが、今はJR総武線、中央本線になっています。
江戸城外郭の土塁の上にあった牛込駅はというと、ブラタモリで紹介されたように、駅の石垣が残っています。
水上輸送の揚場、陸の甲武鉄道と軽子坂周辺は大きく変わっています。
今のJR飯田橋駅神楽坂方面出口は牛込御門ですもの。駅前に立派な石垣が堂々と残っています。
古鎌倉街道を思わせる軽子坂
軽子坂を北へ登って行くと確かに神楽坂よりもゆるい勾配で、荷を運ぶならこの坂だなと納得するのですが、道なりに進んで行くと、牛込城の武器庫だった兵庫横丁を横目に見て、北方向に曲がり、御殿坂に出るのです。
しかしながら、御殿坂への道は江戸初期に作られているので古鎌倉街道ではありません。

江戸時代、御殿山に御殿坂ができる前(三代将軍家光以前)、古鎌倉街道は西方向へ直進して瓢箪坂を登り、赤城神社の前を通っていたと云います(赤城神社は戦国時代、大胡氏の出城だった)。筑土八幡は小高い丘の上にあり、かつては、街道監視のための砦だったと云われています。
牛込城近くの軽子坂は、古い軍事的な道だった可能性があります。


人工的なお堀が無かったら、軽子坂からの道は、津久戸村、千代田村へと続いていたように思えます。
古くは牛込という古代の牧場から始まり、鎌倉街道、江戸時代の外堀、揚場、甲武鉄道、JR飯田橋駅と、大きな変遷をたどっている場所です。
神楽坂周辺は一つの坂だけで語れない関連性が多々あります。
以下のリンクから神楽坂周辺をご覧ください。
新宿区神楽坂と光照寺(牛込城跡)
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