逢坂(おおさか)は別名、美男坂。
逢坂には、奈良時代、「さねかずら」という町娘が、亡くなった彼氏とこの坂で逢ったという悲しく儚い伝説があります。
昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、 美しい娘と恋仲になり、のちに都へ帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再びあったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという
この話、江戸っ子にしてはきれいすぎます。
話好きの暇な知識人階級が作ったとしか思えません。
だって百人一首の三条右大臣の歌に
名にしおはば 逢坂山の さねかずら 人にしられで くるよしもがな
「逢坂」も「さねかずら」も出てきます。「さねかずら」はつる性植物の名前で、つるの粘液を整髪料に使ったので、使ってイケメンになった?ので、別名「びなんかずら」。
亡くなった美男な彼氏と「びなんかずら」。美男坂の名の謎も解けるというわけです。
よく出来たお話です。
もともと「大坂(大きい坂、長い坂)が転じて、逢坂」なので、伝説は後付けです。
ここまでの謎は従来から解けているのですが、走って登ると、とてもキツイ急坂なのです。
ここにこんな急坂を作る必要があったのでしょうか?
急坂の謎
こんな急坂、なぜ出来たのでしょう?。
この辺りは古代の律令制時代の牧場があったので牛込という地名があります。牧場への入口?それなら、もっとゆるい坂にしなくては牛も人も苦労します。
また、坂下は舟河原町といいます。
舟河原町の名前の由来を調べると「むかし、船溜まり(空船の係留場)があったので…」。
船溜まり?今の感覚でいうとお堀には、ちょっと遠い。
舟は関係しているのでしょうか?
古地図をみると

あっ!なんと、お堀と並行して、すっ水路があったのか!
江戸初期(1640年代)はこんなだったなんてビックリです。
これなら逢坂の坂下は完全に水路、運河です。
妄想すると、はじめは揚場町の軽子坂と、ここ逢坂で荷揚げしていた。荷揚げするには逢坂は急な登りでたいへん。
なので新坂(庚嶺坂、江戸初期に開削されたので新坂の別名がある)を作った。新坂(庚嶺坂)はこの水路があったがために作られた。こんなストーリーが考えらます。
そして、軽子坂、新坂で荷揚げして神楽坂方面へ運び、空になった船に、ここ逢坂で神楽坂方面からの荷を荷積みをすれば、下り坂ですので、なんの苦労もない。。。
また、逢坂の舟河原で荷揚げしたものは、坂下の道周辺の町々へ運べます。
システマチックに考えれば、謎が解けたような。
それにしても、お江戸はベニスのような水の都とよく言いますが、それは横十間川のような運河、深川周辺を言うのだと思っていました。しかし、神楽坂周辺まで運河があったとは驚きです。
いつもはお江戸初期のアバウトすぎる地図と嘆いていましたが、とても役に立ちました。
時代は少し新しくなって

1670年代の地図で、すでに水路は無く、今の外堀通りが出来ています。水上から陸上輸送に変わったことが伺えます。
お江戸はどんどん進化しています。
逢坂の悲しい二つの伝説(江戸時代の幼児虐待?堀兼の井戸伝説、ナベヅル?)へ続く
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