神楽坂のはずれ、矢来町と天神町の間に位置する坂です。
堀部安兵衛はこの坂を駆け登って「いざ!高田馬場へ!」という伝説が残っているのですが、私の考察だと、堀部安兵衛(当時は結婚前で中山安兵衛)は義理の叔父さん、お付きのもの数名といっしょに夏目坂を歩いて高田馬場へ行った公算が強いのです。
夏目坂と中山安兵衛の項をご参照ください。
なので、伝説は講談話から来たものです。
しかしながら、ここには坂道説明板がありません。
立爪坂もそうだったのですが、説明板がないときは、あやしい。
なにか暗い過去がありそうな?
比丘尼とは?
お江戸の三大黒歴史「ゴミ坂・市中引き回し・岡場所」と私は勝手に思っているのですが「比丘尼」も黒歴史かも。
比丘尼を地名で調べると、各地に、比丘尼坂、比丘尼橋、比丘尼交差点とかあるのですが、比丘尼橋の言い伝えは……
昔、地元の名主と恋仲になった尼僧が叶わぬ恋ゆえ橋から身を投げた……
仏に仕える尼僧が恋に落ちたってぇ、けしからん!となって終わるところが、悲しい恋の物語になっているのです。
「比丘尼」と色恋は関係がありそうです。
比丘尼交差点は、昔、娼婦が立っていたところ?
そうです。ここでいう比丘尼とは尼僧の格好をした私娼婦のことなのです。
大日坂の項(大日坂はギャンブルも関係している疑いが(*’д’*))でも少し触れましたが、比丘尼とは有難いお札「熊野牛王符」を売り歩いて、ときには歌を歌いながら(豆腐屋さんのラッパのようにアピールしながら)、ついでに春も売っていた女性なのです。尼僧はお札を売りに各家に入っていくので尼僧コスプレをしていれば怪しまれずに行動できたといいます(もちろん幕府によって私娼婦は禁じられていました)。
神楽坂には行願寺周辺、赤城神社周辺に岡場所(幕府非公認遊郭)があったのですが、そこで遊ぶお金がない人はここにきたのでしょうか?

神楽坂のはずれの路地裏のここに、目立たないここに、尼僧コスプレの娼婦がいた、または小さな私娼婦街があったのでしょうか?。
江戸時代の私娼婦
江戸時代、私娼婦にも、いろいろあって夜鷹、提重(さげじゅう)、比丘尼、舟饅頭、蹴転(けころ)などなど。「夜鷹」はよく時代劇にでてくるのでイメージできます。
「提重」は重箱提げて持ち歩きケータリングサービスを装って。
「舟饅頭」は小舟で春を売っていて(舟で肉饅頭を売っているというニュアンス)。
「蹴転」は茶屋などの店先で、男を蹴飛ばし転ばせてでも客を引きずり込むので「蹴転」と(*’д’*)。なんとも勇ましい娼婦、キャッチバーの客引きのような娼婦もいたものです(≧∀≦)。
有名な「湯女」も銭湯で背中を流し、客の相手をしていたので娼婦といえますが、銭湯という雇い主がいるので私娼婦のカテゴリーには入りません。
その意味では「蹴転」も茶屋などの雇い主がいるので私娼婦とは言えませんが、よく調べると、湯女も蹴転もフリーの人がいて、その人たちは私娼婦と呼べます。
比丘尼に関して、宮武外骨の著書「売春婦異名集」によると、比丘尼、歌比丘尼、船比丘尼、仕掛比丘尼とあり、仕掛比丘尼に至っては、なんでそんな名称(?_?)、妄想することも不可能と思うほど。また、別名を丸太、丸女、尻出。
これだけ名称があるということは、かなり一般的だったということでしょうか。
比丘尼坂のクランク部分

明治の地図をみると今と同じように確かにクランクしています。
余談ですが、江戸時代の組屋敷地の名残りでしょうか、一軒の敷地が細長くて面白いです。
江戸切絵図の比丘尼坂をみるとクランクしていません。
ご心配なく、これは民間の尾張屋が作った地図でデフォルメ、省略も多いのです。
幕府が作った地図をみると
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こんな古い時代、1670年代から、350年以上前から、しっかりクランクしています。
この地図は幕府がオランダの測量技術を用いて作成した軍事機密地図なのです。
いつみても正確だなあと感心してしまいます。
このクランクは奥まったところへの、そして異世界への入口感が漂います。
私娼婦の比丘尼は集団で住み比丘尼宿というところから、二三人のグループで街へ繰り出していったと云います。
坂下に降りて左折すると町(A地点)とあり、比丘尼宿があったとすれば、その辺りだったのかもしれません。もしくは無記入のB地点辺りもあやしいです。
「近くに尼寺があったので比丘尼坂と云う」と説もありますが、寺の表記はありません。
しかも中心地である赤城神社の裏門から真っ直ぐ降りてくる坂の奥まった辺り。あやしさ満点です。

クランク部分の写真をよくみると、道路に線があります。左手前の角のお家は通行のため、角切りをしてくれているようです。角が出っ張っていたら、下の坂は見えず、隠れるにはもってこいの場所です。都会の隠れ家を謳い文句にしてるお店はこうゆうところに店を出した方がいいのでは(≧∀≦)。
古くからあるこのクランク、地形的要因では無さそうだし、当初は軍事目的があったのかもしれません。


ちょうど、私が怪しいと睨んだA地点の軒先におばあちゃんがでていたので取材してみることに。
比丘尼坂っで知ってますかと聞くと「あたしゃ、長い間住んでるけど聞いたことないねえぇ」(*’д’*)、そして軒先の藤を見上げて「この藤、100円の鉢植えだったんだよおぉ、肥料はあげない方がいいねぇ……」とニコヤカにお話が始まり、取材終了!
あたしゃ比丘尼だっんだよぉぐらいのボケかましてくれれば話が盛り上がったのに。
まっ、こんなもんです。
住んでいる方にとっては坂は生活のための通路だし、自分の住んでいるところが比丘尼宿だったのかも、なんてどうでもいいこと、生活とは無関係なこと。
坂の歴史にムキになって挑んでいるのは私だけかもしれません。

おばあちゃんが言うように坂名がハッキリしない点があって「どれが比丘尼坂か」という論争が、江戸時代からすでにあって、これは朧の坂(おぼろのさか)だとか、いや違う、朧の坂は比丘尼坂の別名だとか。そんな論争があったということは、幕府の厳しい取締りにあって私娼婦街は、すでに無くなっていたということでしょう。

私の考察だと、比丘尼宿がありそうな町に近い古い坂(C地点)350年以上前から存在しているこの無名の坂も真の比丘尼坂ではないかと、密かに怪しいと思っています。なにせ神楽坂周辺は神楽坂が出来る前、江戸幕府が出来る前から開けていたところが多いのです。
妄想と私娼婦の話が長くなってしまいました。
お江戸の人口の男女比率をみると当初は1.8対1(諸説あり時期により変遷しますがどの時期も男>女)と圧倒的に男性が多いのです。お江戸はもともと人工的に作った街。江戸城の普請、武家屋敷建設、道路整備、お江戸の花、火事後の建設ラッシュと労働力を必要としていました。自ずと男性が多くなります。
また、幕府の改革、経済政策で職に就けなくなった女性も多かったのでしょう。悲しい物語もあったと思います。そんな状況でも逞しく生きる女性がいたということを忘れてはいけません。

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