目白通りの大曲交差点から大きなカーブを描いて伝通院へと登っていく安藤坂。大曲という地名は神田川を大きく曲げてお堀へと流れを変えたのでこの地名なのですが、安藤坂のカーブは神田川とは関係なさそうです。なぜでしょう?
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切絵図をみると、安藤坂の名前の由来がわかります。坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩家老)の上屋敷があります。なので江戸時代は「安藤殿坂」とも呼ばれていました。伝通院へと真っ直ぐ続いているので、町人地も多く伝通院の参道として発展していったことが伺えます。
牛天神、牛石経由伝通院の観光コースのようにも見えます。
坂下の水路は神田川ではなく、神田上水です。
各屋敷ごとに橋が架かっていてオモロです(*´∀`*)。
坂下の道筋が今とずいぶん違います。
今ある大きなカーブがありません。
このカーブは何だろう?
答えは古写真にありました。


あっ、道路に軌道が!
そう、明治後期に路面電車を通すために新たに開削された部分だったのです。
安藤坂が急坂だったため、路面電車(当時、市電)はループ式でないと(大きくカーブしながらでないと)登れなかったそうです。
初期の市電は非力そうですものぉ。
しかしながら、皆さん、車道を堂々と歩いていてのんびりしてますねぇ。自動車はまだ少なかったようです。
しかも、この古写真、小石川区役所の写真って?
また、そーです!昭和22年、小石川区と本郷区とが合併して文京区となったのです。
いろいろ変遷はありますが東京35区だった時期もあるようです。こんなところにシビックセンターの一つがあったのですね。ビックリです。

左の明治初期の地図では神田上水が描かれています。
右の明治末、神田上水は巻石通り(暗渠にするため、水路を石で巻いたのが由来)になっています。小石川区役所の表記もあります。市電が通り、道幅が拡張され、坂下の道筋が大きく変わっています。
白鳥橋も市電のために架けられたのがミエミエです。
坂下7.2メートル、坂上24.1メートルの表記ですから、かなり登っています。
安藤坂の歌塾「萩の舎」
安藤坂を東側の歩道を登っていくと、プレートが歩道に埋め込んであります。
興味シンシンなのですが、「萩の舎」の痕跡が全くありません(T-T)。
明治19年(1886年)の頃、5000円札の樋口一葉は安藤坂にあった中島歌子主宰の歌塾「萩の舎」で学んでいました。
一葉一家はその頃、菊坂下道の借家に住んでいましたが、貧乏だったので、一葉は「萩の舎」で住み込み女中をしながら勉強していたようです。


坂上の伝通院前交差点

奥に見えるのが伝通院。
道路上部に架線が張り巡らされています。
路面電車は市電から都電になって昭和46年まで存在しています。


こんな光景だったんですねぇ。
伝通院方向へ右折する車のために都電が一時停止しています。
よく見ると、立ち往生してしまった都電に子どもをおんぶしたお母さんが乗り込んでいます。
おおらかさとバイタリティがあった頃ですねぇ。
いいかげんとも言えますが(^_^)。
またよくよく見るとおそば屋さんの看板が見えます。
江戸時代、狐の化身、スーパー修行僧の澤蔵司が通ったという「稲荷そば萬盛」さんです。
今は自動車社会で、早稲田から三ノ輪橋までの荒川線しかない都電ですが、東京の道路形成に大きく影響していたのですね。
そういえば、昭和の都電には記憶があって、発車するときに、ベルをチンチン☆っと鳴らすので「チンチン電車」と言うんだと、父に教わりました。
私もそう呼んでましたが、Hな名前だなぁとも思ってました。
皆さんはどう呼んでいました?気になります。
安藤坂のように武家由来の坂が多々あります。
武家の名がつく坂ー外記坂と消えゆく朝陽館本家
武家の名がつく坂2ー忠弥坂はあったのか?
武家の名がつく坂3ー壱岐坂
文京区服部坂のメジャーじゃないけどオモロなポイント
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