御殿坂は文京区の白山にもありますが、ここは新宿区。筑土八幡町の筑土八幡神社の脇を登る坂です。
「三代将軍家家光の頃、世子家綱の御殿があったことから、御殿坂とよばれるようになった」と新宿区教育委員会の坂道案内板にあるので、古地図で御殿を探してみましょう。
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この地図は江戸初期なのでアバウト過ぎます。
御殿の表記はありませんねえ。青矢印が御殿坂と思われます。
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家光公(在職:1623年 – 1651年)、家綱公の時代より少し下ります。松平の表記(赤矢印)がありますが、ちょっと位置が遠いような?
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時代はもっと下って江戸中期。松平、マツ平の表記が三つもあります(*’д’*)。でも坂の位置ではありません。

幕末になると、もうホープレスです。
周囲は旗本御家人地、町人地になっています。
調べるとこのような説明もありました。
この坂上は御殿山と呼ばれていました。三代将軍家光公が鷹狩の際に仮御殿を設営したことによります。後に、四代将軍家綱公が大納言時代に牛込御殿を築いたと記録があります。
家綱公(在職:慶安4年(1651 年) – 延宝8年(1680年))はわずか11歳で将軍職に就いています。大納言時代というと、まだ4歳(*’д’*)です。家光公が「牛込御殿」なるものを築いてあげたのでしょうか?。

時代が古すぎて御殿の位置は特定できませんが、坂上、西側(写真左側)辺りに御殿があったと云われています。
しかしながら、各古地図を見ると、どの時代にも「八幡宮、明神」や鳥居が二つ並んだりしていて、坂上に、神社と八幡が並んであったような表記です。
今は筑土八幡神社があるだけなのですが?
江戸名所図絵をみると
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なるほど、江戸名所図絵では「八幡」と「明神」とあり、二つの寺社が仲良く並んで描かれています。
社殿もよく似てて双子のように見えます。
現在の写真でみると、左側の建物の方にも石段の参道があったということです。
古写真をみると

江戸名所図絵に描かれている通り、筑土明神の鳥居が手前にあり、筑土八幡の総門がやや奥にあります。
こんな古写真もありました。

ひどい光景です。空襲を受け、筑土八幡の神輿庫と思われる建物を残して、ほぼ全壊です。
九段の中坂の筑土神社
戦後、筑土明神の方は移転することになるのですが、新天地に再建したと言ったほうがいいでしょう。どこに移転したかというと初め千代田区富士見に、そして今は……

現在、筑土神社として九段の中坂にあります。
ビルの奥にあり、情緒の無いように感じますが、これはこれでグッとくる近代的な美があります。ギリシャのエンタシスのようです。あれ?ここの駒犬、何処かで見たことがありますが……


そうです。筑土八幡と同じデザインです。
建築物も石造物も似ていたようです。筑土八幡の狛犬。津久戸とあります。
筑土八幡神社の宮司さんの話として、戦争で荒れに荒れて残ったものは、お神輿と石造物しかなかったといいます。
ディープな筑土八幡神社
移転せずに空襲で焼けた地に残った筑土八幡は筑土八幡神社となって再建されます。それゆえ、ここには古い歴史があります。

石好きにはたまらない、石種・組み方の違う石垣を見ることができます。その時代その時代の修理、拡張の跡でしょうか。

神輿について 右側の黒い漆塗りの神輿は、延宝6年(1678年)に、当時の氏子崇敬者が御神徳に報謝して作成したもので、戦前から昭和48年までの渡御(とぎょ)に用いられました。 左側の白木の神輿は、鉄製の飾り網、支え棒のついた重厚で堅牢な作りで、慶應2年(1866年)に制作されたものです。昭和52年に修理されて、その後の渡御に用いられています。
このような説明板がありましたが、1678年とは古いものです。
これらのお神輿が戦災を乗り越え残っただけでも奇跡です。
筑土八幡神社の石段を登って行くと脇に唐突に公園があります。このスペースはなんだろう?と思って、調べると、江戸名所図会にヒントがありました。
今と同じように石段途中の鳥居の横に茶屋?らしきものが描かれています。戦災で焼けても地形は変わっていません。
もっと、何か痕跡はないかと、境内を散策すると……神輿庫脇に、なっ、なんだろうこれっ⁈
えっщ(゚Д゚щ)!キリシタン灯籠の残骸か⁈