江戸時代前期、この坂を降りるとキリシタン屋敷があったのでキリシタン坂(切支丹坂)。傍に庚申塚があったので別名、庚申坂とも言います。区の坂名説明板でも庚申坂となってます。
黒歴史は隠したいものなのでだれともなく自然と名称変更したのだと思います。
そもそも、こんな崖に道を作る必要があったでしょうか。
それはキリシタン屋敷の入口があったから必要だった、ということでしょう。
江戸時代後半になると隠れキリシタン自体の存在も薄れ(幕府が隠れキリシタンの存在を黙認したとの説もある)キリシタン屋敷もその役目を終えて消えて行きます(幕末は隠れキリシタンよりも黒船、開国でたいへんだったのかも)。
キリシタン屋敷が無くなったので坂の名前も変わったのかな?とも言えます。

古地図でみると
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1843年、キリシタン屋敷の表記があります。
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幕末になるとキリシタンサカの表記はありますが、キリシタン屋敷が消滅しています。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記は残っています。その他、銃練場の表記もあり、幕末の緊張が伝わってきます。
今では丸の内線が高架を走り、隧道ができ、時代とともにずいぶんと変遷のある場所です。

明治になって、この坂のことを夏目漱石は木々が生い茂り、昼間でも暗く気味が悪い坂だと言ってます。
志賀直哉はこの坂を史上初めて自転車で下り、あまりに急すぎて(当時はブレーキ無し?)、対面の民家に突っ込んだと自伝に書いています。それぞれに強烈な印象を与える坂だということは確かです。
この辺りにはキリシタン坂と呼ばれる坂は他にもあって、坂マニアの間ではどれが本当のキリシタン坂か論争になっています。他のキリシタン坂を見てみましょう。

文京区教育委員会がいう
キリシタン坂
文京区の説明板ではこちらが本当のキリシタン坂となっている坂。地下鉄丸の内線の隧道をくぐった向こう側の坂ですが、明治の地図を見るとこの坂はまだ無く、文京区がいう庚申坂が切支丹坂となっています。
隧道の向こう側の坂は明治以降に開削された新道ということになり、志賀直哉が降りたのは右側の坂ということになります。
まだ階段坂ではなく、急峻さがわかります。よく見ると突っ込みそうな対面の民家もあります(≧∇≦)。
その後、よく調べてみると、この坂がキリシタン屋敷への入口であったら、キリシタン坂と呼んでもいいのではないかと思うようになりました。
文京区公認のキリシタン坂の怪 をご参照ください。

切絵図にある漢字で切支丹坂
嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」に漢字で「切支丹坂」としっかりと書いてあります。しかも階段を表す表記になっています。
キリシタン屋敷は別名、山屋敷とも呼ばれ、小日向台地の上にあり、神田上水の流れる谷側の下町から、この坂を走っていくと確かに、キリシタン屋敷比定地に近いと体感できるのであります。
ひょっとするとこの坂はキリシタン屋敷の裏口への近道だったのでしょうか。発音は同じで、カタカナと漢字で区別していたのか?謎です。
それにしても、ここからだと登り坂が続き、かなりハアハアと息があがり、いいトレーニングになります。自転車も押して登ってますよ (≧∇≦)。

地下鉄丸の内線車両が登ってきたキリシタン坂
丸の内線が出来たころ、キリシタン坂をトレーラーに乗せられた丸の内線の車両が登って車庫に入ってきたとメトロの資料で言っています。そのとき、この無名の坂をキリシタン坂と言っています。地下鉄車両が登ってくるなんて、すごい光景ですね。写真左の白い建物がメトロの車庫です。左の石垣は慶喜公屋敷跡です。
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【追記】
キリシタン坂の由来になった切支丹屋敷跡からイタリア人宣教師シドッチの遺骨が発掘されました。
詳しくはこちらで。
切支丹屋敷とシドッチ神父
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