茗荷谷の谷筋からお江戸の情緒が濃い藤坂を登ると、春日通りに出ます。春日通りの向こう側には幅約40メートルの播磨坂が見えてきます。江戸時代の松平播磨守の屋敷を貫く播磨坂、こんなに幅広な坂道は江戸時代から存在したはずは無く、近代の開削だということがわかります。


播磨坂は、いつからあるのか?
地図で調べてみると





この頃の播磨坂に中央分離帯はありますが、ずいぶんと途切れ途切れになっています。そういえば、ひと昔前、この辺りで中央分離帯の遊歩道を歩いた記憶がありません。
今では中央分離帯に桜並木、流水施設もあり、文京区でも屈指の憩いのスポット、お花見スポットの一つとなっています。






環三通り?
しかしなぜ、こんな幅広の坂道が作られたのか?桜並木を作るためかぁ?以前から不思議に思っていました。
調べてみると、
ウィキより 1923年に発生した関東大震災後の東京市の震災復興計画での街路計画をもとに、第二次世界大戦後に東京都の戦災復興計画で計画決定された「東京都市計画道路幹線街路環状第3号線」は、資金難で一部区間のみ開通した。これら開通区間は通称として「環状3号線」と呼称されることがある。 六本木付近では東京オリンピックを契機とする道路建設において、既存道路との交差地点にトンネルが設けられるなど、将来の開通を見越した工事が行われた。また、文京区では「播磨坂」として一部区間が開通している。
「環状第3号線」計画の一部だったのですね。そういえば以前「環三通り」なる交差点があったような気がします。
環状第3号線は資金難で頓挫したようです。
計画では今の藤坂からは高架になって茗荷谷を貫くはずだったらしいのです。ただでさえ丸ノ内線の開通で変貌してしまった茗荷谷の上を高架の道路が開通しなくて、良かったように思います。
茗荷谷には、まだたくさんのお江戸の情緒が残っています。
播磨坂は江戸時代の松平播磨守の屋敷を貫き、宗慶寺、極楽水を移転させ、お江戸、明治大正の風景を変貌させています。文京区のほうでも、歴史を残そうと説明板を設置しています。

泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所の師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。 二人は、文久二年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。 海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。 平成26年3月 文京区教育委員会

今の播磨坂は旗本御家人地、松平播磨守の大名屋敷、宗慶寺、極楽水を貫く形になっています。
歴史に名を残す偉人が住んだところです。切絵図にも「高橋連之助」「山岡紀一郎」と描かれています。(区の説明にある山岡静山=山岡紀一郎)
「高橋連之助」の養子がお隣の山岡家から来た高橋泥舟です。次男の泥舟が高橋家に養子に出た後、山岡家長男の「山岡紀一郎」は27才で早世してしまいます。しかたなく妹・英子(ふさこ)に婿をとって跡を継がせました。このお婿さんが山岡鉄舟だったのです。
非常にややこしいですが、泥舟と鉄舟とは義兄弟でお隣さんだったのです。

古写真を見ると、お江戸の歴史を壊して作った大きな坂道というイメージが一変します。
戦争で破壊された街を復興するための希望の坂道だったのです。
今の桜並木の賑わいは復興の一つの形であり、平和な光景だという感慨が沸いてきます。
明治の歴史も残すため、文京区さんは「石川啄木終焉の地」隣に「石川啄木顕彰室」を作ってくれました。こちらのページの最後のほうにレポートがあります。
播磨坂はお花見だけでなく、歴史も散策できるスポットです。
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