浄瑠璃坂

浄瑠璃坂と堀部安兵衛

江戸三大仇討ちの一つ、浄瑠璃坂の討入り

江戸三大仇討ちの一つ、「浄瑠璃坂の討入り」は、少しばかりマイナーです。

寛文十二年(1672年)、浄瑠璃坂上、仇敵をかくまう鷹匠屋敷に夜分、火事装束の40数名が討ち入る事件が発生します。

宇都宮藩を脱藩した奥平源八が徒党を組み、父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討ったという事件です。

浄瑠璃坂事の起こりは、数年前の宇都宮藩の法要での些細な口論からの刃傷事件。

一族の内輪喧嘩のように見えるし、浄瑠璃坂では本懐を遂げることができずに、帰る途中、神楽坂下、牛込御門付近まで追ってきた仇敵を討ちとるなど、話が複雑なことがイマイチマイナーな原因です。

がしかし、30年後の赤穂浪士討ち入り事件のお手本になったとされています。
夜間、火事装束、40数名、討入り後に幕府に出頭など、多くの点が酷似しています。

高田馬場の決闘で名を馳せ、時代劇、講談等で「喧嘩安兵衛」として有名な赤穂四十七士の一員、堀部安兵衛(当時は中山安兵衛)は浄瑠璃坂上、鷹匠町近くの納戸町に住み、牛天神下網干坂の堀内道場に通っていました。
彼は近くで起きたこの事件のことをよく知っていて、参考にしました。
また、高田馬場の決闘では着物の帯を切られ難渋したので、本所での討ち入りの際は帯ではなく鎖を巻いていたと云います。

講談では八丁堀から神楽坂比丘尼坂、矢来下、馬場下まで駆け抜ける壮絶なランナーとして描かれています(^^*)。

夏目坂と漱石先生と堀部安兵衛を参照

牛天神下の網干坂と堀部安兵衛の堀内道場を参照

新宿区矢来町の比丘尼坂の比丘尼とは?を参照

真実の元禄赤穂事件 泉岳寺への道へ

フィクション忠臣蔵の名場面
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古い町名が残るこの辺り

この辺りは納戸町払方町鷹匠町と江戸時代から町名が変わらない地域です。
太平洋戦争中、空襲を受けたとき、地元の方々が尽力、消火活動のおかげでこの辺りは焼けずにすみ、その恩恵で古い地名がそのまま残ったといいます。

古地図を見ると

今の鷹匠町のところに「タカ」「タカイ」「タカムロ」と鷹に関連する苗字が多いのがおもしく、ハラヒカタ丁、ヲナンド丁と現在も町名が変わっていません。

古地図:天保十四年(1843年)岡田屋版 御江戸大絵図より浄瑠璃坂
天保十四年(1843年)岡田屋版 御江戸大絵図

江戸時代の坂道番付をみると「小結」。

江戸の坂道、橋番付(クリックで拡大)

大関「神楽坂」、関脇「九段坂」と納得のラインアップですが、小結 「市ヶ谷浄瑠璃坂」とあります。

いまではあまりメジャーではありませんが、当時は、人形浄瑠璃を上演する小屋が何件もあったと云い、有名な坂でした(余談ですが、私の大好きな切支丹坂が張り出しています)。

浄瑠璃坂は江戸黒歴史の一つ、江戸市中引き回しコースの一部になっており(ごみ坂経由説もあります)、浄瑠璃小屋の見物などで、かなりの通行量があったと思われますが、今は住んでみたいような閑静な住宅地となっています。

新宿区の二つのゴミ坂と江戸市中引き回しコースを参照

古写真:浄瑠璃坂

明治の古写真をみても、この頃から閑静な住宅地という趣が感じられます。

古写真:払方町
古写真:払方町

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