小石川植物園の脇を北へと登る坂です。小石川植物園は江戸時代、「赤ひげ」で有名な御薬園、小石川療養所があったところで、それ以前は五代将軍綱吉公の徳川館林藩の御殿があったので「御殿坂」と呼ばれています。
新宿区にも御殿坂がありますが、そちらは四代将軍家綱公のものです。
江戸切絵図(東都小石川絵図)にも「コテンサカ」とあり(右上)、御殿が御薬園になっても御殿坂と呼ばれていたようです。
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ひと昔前は狭くて古い佇まいの坂道だったと記憶してますが、植物園側に拡張、歩道も整備され、落ち着いた静かな坂道になっています。
歴史ある古い坂道で話題が尽きないのですが、坂下近くに、夏目漱石先生が若い頃、下宿した新福寺というお寺があります。
漱石先生の下宿先

漱石先生の若い頃、明治17年(1884年)、東京大学予備門合格を目指して、新福寺の二階に、友人、橋本左五郎氏(ニックネームは左五)といっしょに自炊しながら下宿しています。
後年、漱石先生は左五のエピソードを語っています。
東京大学予備門入学試験で、代数が難しく途方に暮れていたら、隣席の左五がそっと教えてくれて、お陰でやっと入学した。
えっ!漱石先生、それって不正行為じゃないっすか?
しかも漱石先生は合格したのですが、左五は落ちて「東大なぞくだらない」と言い、札幌農学校へ入学、畜産学者として大成しています。

また、この新福寺では「時の鐘」を鳴らしていたらしく、漱石先生は、小説「琴のそら音」に時の鐘のことを書いています。
盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気がつかなかったが注意して聴いて見ると妙な響である。…(略)…しまいには鐘の音にわが呼吸を合せたくなる。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。

小説の中では法学士の主人公は白山御殿町に住んでいる設定で、植物園の横の御殿坂を下りる途中で時の鐘を聴き、交番の角を曲がり、、、
Aが新福寺、Bが御殿坂、植物園の前に交番(青矢印)があります。
植物園の角はずいぶん余裕のスペースだなと思っていたのですが、交番があったのです。
小説「琴のそら音」は明治38年(1905年)の作品。若い頃の思い出の地を懐かしく思い、散歩して書いたのでしょう。
しかしながら、明治末まで時の鐘は鳴っていたとは、庶民にとって時計はまだまだ高価だったということです。
時の鐘は有料だった?
新福寺には寛文年間(1660年代)の「鐘撞料割付覚」という時の鐘の徴収料明細が残っています。
館林様は年間銀30枚、水戸様は年間銀25枚。その他、近隣の大名屋敷が続きます。
(銀一枚で161グラム、相場にもよりますが銀一枚=約10000円と私は計算し想像しましたが、当時の物価はどのくらいだったのでしょうか?)
基本的に石高によって徴収料が決まったようです。
館林様とは今の小石川植物園の位置で、よく聞こえるし、納得。
館林様より石高の高い水戸様のほうが安いって(?_?)。。。
水戸様は後楽園の位置ですから、直線距離にして約2キロ。
鐘の音は聞こえたのかな?
それだけお江戸は騒音が無く静かだったということ?
少し聴きづらいのでオマケして25枚ってことなのでしょうか。
時の鐘はサービスで鳴らしているわけではないということがわかる資料です。
「君、聞いたよねぇ鐘、、、金出せ」 ってぇ、なんか脅されているような気がしないでもないです (≧∇≦)。
一般の民家からも徴収したらしく、月に三文(約30円か?)と言っている資料もあります。
ここから「早起きは三文の得」って言われるようになったのかと妄想してしまいます。
鐘の音で早起きしたのだから、「三文」分、稼がなきゃならんということでしょうか?
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉が詠んだこの句は時の鐘のことで、ほんわかと、お江戸の音風物詩が聞こえてきます。
「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」『改撰江戸志』 「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」『江戸志』 白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。 綱吉の将軍職就任後、御殿跡は江戸幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。 明治になってからは東京大学の付属植物園となった。 植物園の松の花さへさくものを 離れてひとり棲むよみやこに 若山牧水(1885-1928) 文京区教育委員会 昭和58年6月
ここでまた疑問が、、、
若山牧水先生が小石川植物園を詠んでいるので、調べると、、、
文京区には12年間、6箇所に住んでいます。
引越しが多い!しかも近くに(*’д’*)。
明治38年4月:小石川豊川町3番地(現・目白台2-9-8) 明治44年1月:本郷3丁目18番地(現・本郷2-39-7辺) 東雲館 明治45年4月:小石川大塚町25番地(現・大塚2-18-8) 大正2年6月:大塚窪町20番地(現・大塚3-14-4) 大正5年7月:本郷天神町1丁目29番地(現・湯島2-24-11)富士館 大正5年12月:小石川金富町53番地(現・春日2-19-12)
小石川で石川啄木先生が亡くなっていて、牧水先生は彼の最後を看取っています。啄木先生は明治45年に亡くなっているので、その頃、牧水先生は近くの大塚2丁目に住んでいたことになります。
大酒飲みで豪快な牧水先生が啄木先生の親友だったとは少し驚きました。

【朗報】石川啄木顕彰室ができました!
石川啄木終焉の地は、プレートだけで寂しすぎるとあちこちで評判だったのですが、この度(2015年3月)、終焉の地のすぐ隣に、石碑と石川啄木顕彰室が新設されました。
FBグループの方と区議会議員さんに教えていただき、行ってきました。
最期の歌二首の陶板が嵌め込まれた立派な石碑です。啄木先生の故郷、岩手の石「姫神小桜石」を使っています。渋民村に建てた第一号歌碑と同じ石だそうです。
相馬屋製の原稿用紙って、漱石先生も使ってた、あの神楽坂の文房具屋さんの相馬屋です。何かの計算も書いてあります。
手書き原稿のレプリカですが、この地で読むとジーンと泣けてきました。
啄木先生ファンの方は、ぜひ、訪れることをお勧めします。
文京区さん、よくやってくれました。
あのプレートだけの寂寥感から解放されました。
ありがとうございます!
ずいぶんと話題が飛躍してしまった感がありますが、それだけ文京区には歴史があるということです。
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