お江戸の坂道を研究していて驚くのは幽霊坂という名の坂が多いこと。日本各地、都内各所に点在する幽霊坂の特徴といえば、森林の中で薄暗い坂、寺社に近い坂などが挙げられます。お江戸の頃は本当に幽霊が出たのでしょうか?
地形的にみると、これはゴミ坂?と思うものもあり、急に崖がある危険地帯もあります。ゴミ坂(ゴミ集積場)or危険地帯だった場合は、子供達が不潔な場所、危険な場所に近ずかないように、「幽霊がでるよ〜」と言って「幽霊坂」または「闇坂」「暗闇坂」と呼びました。
文京区目白台の小さなエリアですがこんなに近くに二つある「幽霊坂」について考察してみましょう。

この地図の上の方に公然と「ユウレイサカ」と表記がある坂。本住寺の脇を通っています。今はお寺も移転して、なんってぇことのない坂なのですが、明治の地図をみると、、、

青矢印にお墓のマークがあるある、怖っ!((((; ゚Д゚))) 。
しかも竹林だらけ。
実際、幽霊を見た人がいたのでしょうか?
地形を読み解くと、英語でいうショートカットになっていて、A地点で別れた二人、一人がT字路で左折すると、B地点で別れたはずの人とバッタリ会ってしまうので、不思議な気持ちになったのかもしれません。

現在の幽霊坂は日本女子大学目白キャンパスの脇を通り、ちっとも怖くないのですが、ひと昔前まで、ホーンテッドマンションっぽい家が。
以前は日本女子大敷地内で塀に囲まれていました。

調べてみると、NHK朝ドラ「あさが来た」で女子の大学設立に奔走する「成澤泉」のモデルとなった日本女子大学の創設者・成瀬仁蔵氏の旧宅(明治34年(1901年)築)でした。
現在、不忍通りの拡幅工事(詳しくは小布施坂の項参照)に伴い、移築工事中です。今の日本女子大構内、成瀬記念館の隣に移築されるようです。工事完成予定、平成29年6月末。
今もなお不気味なもう一つの幽霊坂

切絵図の下のほうにある無記名ですが、今でも怖い雰囲気の「幽霊坂」があります。
ここは江戸時代、細川家抱屋敷の脇を通る坂でした。大名屋敷は現在、新江戸川公園として名残りを留めています。

お寺も墓地も無いし、なぜ「幽霊坂」と呼ばれたのでしょう?
例えゴミ集積場だったとしてもゴミ坂の下に大名屋敷があるのは不自然です。ならば、危険地帯なのでしょうか?
よく現地調査してみると、崖らしき、しかも湿地だった痕跡もあります。

今は坂下に平坦な公園があります。
一部大名屋敷だったところかもしれませんが、この公園、地下に雨水浸透施設を設けた立派な構造になっています。
盛土をして平地にし、一部分深いところを残し雨水浸透施設を作ったと想像できます。土砂崩れの予防にもなっているんですね。このようなものを作るということはもとは危険な場所だったと想像できます。


明治の地図を見ても等高線の入り組んだ山がちなエリアです。舗装道路でもなく、雨の日に滑ったらたいへん!子供達が近づかないように「幽霊坂」と呼んだのでしょう。
現在、文京区のご配慮のおかげで、坂下の公園は、子供達にも安全な公園になってます。
あと切絵図で気になるのは細川家下屋敷に鶴、亀の松が描かれています。縁起の良い大きな松だったので、旧町名「老松町」に残っています。
鶴塚、亀塚と呼んだらしく前方後円墳の前後の跡ではなかったかという人もいます。こっ、これもお墓でしたね。

【追記】
2016年6月8日、幽霊坂下の目白御殿警備のための警察官詰所は、児童公園工事のため、やっと撤去されたようです。

ゴミ坂を考察した以下のページもご参照ください。
幽霊坂トップへ
もとはもっと多くのゴミ坂が存在したはずですが本名を隠しているケースもあり、ゴミ坂探しも面白いものがあります。
文京区の名坂トップへ
文京区の二つの幽霊坂グーグルマップはこちら
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