秋田蘭画とは、秋田久保田藩の人々か描いた西洋風絵画のこと。秋田蘭画の成立には江戸中期の本草学者、江戸のダ・ビンチと云われた万能の奇才・平賀源内が大きく関わっています。
小野田直武と平賀源内の出会い

一部の洋書を解禁した八代将軍吉宗公の治世。長崎留学をして西洋の文化をよく知る平賀源内はグローバル化する世界に対応するには「舶来品を参考に国内製品を作らねば!そのためにはまず我が国の資源を把握する!」と考え、日本各地を巡ります。
安永二年(1773年)七月、久保田藩に招かれ、院内銀山、阿仁銅山を調査しています。
その時、角館に宿をとり、宿にあった花鳥の屏風絵を見て感心します。源内は宿屋の主人に頼み、この絵の作者を呼び寄せます。
この屏風絵の作者こそ、のちに秋田蘭画の代表作「不忍池図」を描くことになる小野田直武でした。
二人の出会いのエピソードとしてこんな話が残っています。
源内は直武に「白い饅頭を上から見て描いてみせよ」と言います。饅頭などは輪郭だけを描くと○と描くしかありません。直武が困り果てていると源内は長崎で学んだ陰影法を使って○の内に細い筆で線を重ねて影を付け立体的な饅頭にします。見たことのない画法をスラスラとこなす源内に感銘。これ以来、直武は源内を師と仰ぎます。数え年で源内四十六歳、直武二十五歳のことでした。
同年十月、源内は江戸に帰ります。同年十二月、直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、神田白壁町に住んだ源内のもとに寄寓します。源内が主催する諸国物産取扱所に集まってくる珍品を写生して西洋画の技術を磨いてゆきます。
解体新書の挿絵を描く
この頃、前野良沢・杉田玄白らによる「解体新書」の翻訳が進み、その挿絵画家に小野田直武が抜擢されます。杉田玄白の友人だった源内が進境著しい直武を推薦したと伝わります。

それまでも医学書はあったもののご覧の通りリアリティのないものでしたが、西洋絵画を能く研究した直武の解体新書のものは白眉。今までにない優れた陰影表現を示しています。
不忍池の近くに住んだのか?
さて、なぜ、蘭画の背景に不忍池が描かれたのでしょうか?調べてみると……。
安永六年(1777年)いったん秋田に帰った直武は翌年、藩主で同じく蘭画家の佐竹義敦(佐竹曙山)の参勤交代のお供(蘭画指導役として)で再び江戸を訪れます。
この頃、秋田久保田藩は不忍池近く、池之端仲町通りに町並屋敷を構えています。町並屋敷とは上屋敷・中屋敷・下屋敷といった幕府からの拝領地でなく藩の自腹で町人地を借りたり、買ったりして構えた屋敷のこと。池之端仲町通りはこの頃、医薬の町で、今でも東京最古の薬店、オランダ人仕込みの処方で知られる「守田宝丹」が残っています。この時代に医薬の町ということは科学の最先端の町ということ。

薬店を通して洋画材(この頃は油絵具がわりに表面にアラビヤゴムを塗布)が手に入りやすかっただろうし、そして池之端仲町通りには解体新書の版元・須原屋一族の須原屋伊八が住んだこともあり、直武の蘭画制作に理解のある環境だったことがうかがえます。

池之端仲町通りに直武のアトリエ兼住居があったとすれば「不忍池図」の構図のように裏庭からは不忍池が見えます。
紅白のシャクヤクと青いリンドウの鉢植えを前に据えて背景に広々とした不忍池。弁天島の周りにある茶屋。遠くに上野のお山の寛永寺の伽藍入口に鎮座する文殊楼(吉祥閣)の大きな屋根が空気遠近法でうっすらと浮かびます。



西の遠景には池之端の町屋と松平出雲守、秋元摂津守の屋敷が遠くに霞みます。
この絵があるおかげで、現代人が見たことのない250年前の不忍池畔の空気を感じることができます。

歴史に埋もれることになる早すぎた死
しかし、安永八年(1779年)直武は突然の「遠慮」を申し付けられてしまいます。罪名は「緩怠之勤方」。つまり勤務に怠りがあったということ。そして、その翌年、三十二歳の短い生涯を閉じます。その突然の死は、源内が起こした殺人事件との関連性など諸説があります。
空気遠近法を駆使した「不忍池図」などの名作を残し、のちの司馬江漢らに大きな影響を与えた直武は、その技術の高さ、先進性ゆえに早すぎる死を迎え、歴史の表舞台から消えてゆきます。
重要文化財「不忍池図」が山形で発見されたのは昭和の戦後になってからです。
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