神田佐久間町は江戸でも有数の火事多発地帯で江戸っ子たちは「神田あくま町」と揶揄するほど。
明治維新直後の明治ニ年(1869年)ここで発生した外神田大火は約1100戸を焼いてしまいます。時代が変わり江戸から東京と名前が変わっても火事は依然として悪しき名物。これを重く見た明治新政府は焼けた町を火除け地とし、火の神・火産霊大神(ほむすびのおおかみ)、水の神・水波能売神(みずはのめのかみ)、土の神・埴山毘売神(はにやまひめのかみ)の三柱の神をお祀りした火鎮めの社、東京府社「鎮火社」を建立します。

ところが……
町の人々は火鎮めの社なら遠州浜松の秋葉権現の神様に違いないと「秋葉神社」と勘違い。火除けの空地を、秋葉さまの原っぱということで「秋葉の原」「秋葉ヶ原」などと呼ぶようになります。

日本鉄道の都心進出
日本最初の私設鉄道である「日本鉄道株式会社」は上野駅を始発として北へ北へと路線を伸ばしていましたが、都心への乗り入れを画策します。

しかし、すでに都心は市街地が縦横に占め、鉄道用地なぞ見い出すことができません。そこで目につけたのが、「秋葉の原」と呼ばれていた火除け地。上野駅から火除け地まではほぼ真南に一直線で公用地である道路が続きます。これは半官半民の日本鉄道としては好都合なこと。地価の高い私有地を買収することなく鉄道を敷設できます。尚且つ、火除け地に船溜まりを設けて外堀の水運と鉄道を結び、背後の日本橋、京橋、新橋の大商業地帯とリンクしようという計画です。

将来的に高架鉄道にするとの約束のもとに、混み合う市街地にいくつもの踏切を設けた地上線は一日の本数を制限した貨物のみという条件で、地元の反対運動を抑え込みます。


かくして明治二十三年、上野から神田川までの地上貨物ルートが開通します。船溜まりのある貨物駅の名称は人々の俗称を受け継ぎ「秋葉原停車場」となります。





代替地に移った鎮火社
鎮火社は入谷町(現・台東区松が谷)に代替地を与えられ移転します。一度、秋葉様と人々に親しまれると元には戻れず、昭和五年(1930年)その社号を正式に「秋葉神社」と変更して現在に至ります。
