皇居のお堀端につづく東京屈指の美しい坂「三宅坂」。ここで目を引く銅像が、最高裁判所を背にして建つ菊池一雄作の「平和の群像」です。三人の裸婦像はそれぞれ「愛情」「理性」「意欲」を表しています。

しかしながら、台座、設置スペースが大きすぎて像とのバランスが悪い印象を受けます。
三人の裸婦と二人の愛らしいキューピットは相まっていて理解できますが、獅子の装飾は何やらいかめしくて場違いな印象です。
よくよく見るとここにはサインが……。「北村西望さく」……これはいったい?
戦前の騎馬像
現在の行政の中枢を「霞ヶ関」というように、戦前の「三宅坂」は陸軍中枢の代名詞。三宅坂には参謀本部、陸軍省、陸軍大臣官邸、陸軍衛戌(えいじゅ)病院が連なり、まさに軍都東京の中心を成していました。



第十八代内閣総理大臣もつとめた寺内正毅元帥の没後四年の大正十二年(1923年)五月六日、ここ三宅坂の宮城(皇居)を望む一等地に、北村西望作の寺内正毅元帥騎馬像が建立されます。


ところが戦況がきびしくなると銅像の金属供出の話が持ち上がります。もともと長州閥以外には評判が悪く、「長州人が宮城を見下ろすとは何事か!」と脅迫まがいの事件も起こり、陸軍としても自らがお手本を示すように鋳潰して供出してしまいます。
それでも浅はかな叶わぬ夢を見、戦勝後の再建を前提に台座はそのまま残されます。

戦後、無傷で残った台座、広大なスペースを利用して株式会社電通が、自らの創立50周年を記念して「平和の群像」を東京都へ寄贈します。
台座を幾分か低くして、台座の題字の「寺内正毅像」を取り外してそこに花のレリーフを追加します。これらがアンバランスの理由です。
3人の裸婦とは破廉恥な!と批判されることもありましたが、軍人の騎馬像の跡に裸婦像=平和の象徴として市民権を得ることになり、以後、各地に裸婦像が建つことになります。


参謀本部前にあった有栖川宮熾仁親王騎馬像は有栖川宮記念公園へ、参謀本部中庭にあった大山巌元帥像は九段坂公園に移転して三宅坂から軍事色が一掃されています。