浄心寺坂は、坂下の円乗寺に八百屋お七の墓所があるので別名「お七坂」。
天和の大火の際、お七は円乗寺に避難して寺小姓と恋仲になったと。
信用すべき資料には「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と一文あるだけで詳細は不明。
当時の古地図を見ても疑問が浮かび上がってきます。


天和の大火
天和の大火(1683年1月25日)は火元が円乗寺近くの大円寺で(火元の大円寺が取り潰しにもなっていないので境内の茶屋か長屋が火元と妄想しています)お江戸の北東部を焼き、死者3500名余、永代橋なども焼け落ち、深川まで焼いた大惨事でした。
その火元とされる大円寺はいまも円乗寺の近くにあります。
大円寺のほうろく地蔵
大円寺には八百屋お七供養のためと伝えられるお地蔵さんがいらっしゃいます。
お七の罪業を救うために、熱した焙烙(ほうろく、素焼きの浅い土鍋)を頭にかぶり、お地蔵さま自ら焦熱の苦しみを受けられていると云います。
なのでほうろく地蔵と呼ばれています。
一般的には頭痛などの首からの上の病気平癒に霊験あらたかとされています。
銘文をみると享保十四年(1719年)渡辺久兵衛という人が寄進しています。ほうろくを漢字変換すると「焙烙」「俸禄」と出てきます。たぶん最初は「俸禄」が上がるとイイね的な信仰だったと思うのですが、どうでしょうか?
いずれにせよ大円寺がら円乗寺までは走ると二、三分くらいの距離です。ここで疑問が生じます。

避難するには近すぎるように思います。
被災エリアからみて当日、西から東に向けて強風が吹いていたと考えられます。円乗寺は大円寺の南西にあり、火の粉を被り類焼する危険性が大いにあります。
そんな大火で避難するなら、まずは真西に走るだろうし、私ならまずは十五分くらいは走り、火の手をみて、どんどん移動していくかもしれません。
地図の疑問
円乗寺を江戸大絵図で探していて、ひと苦労。
大円寺はありますが、円乗寺の表記がありません 。
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大円寺は相変わらず、今と同じところにあり表記もあるのですが、円乗寺の表記がありません。
「上シンシ」は登場し、文京区教育委員会が坂名を「浄心寺坂」としているのも納得できます。
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やっと出てきました。
坂名「浄心寺坂」の由来になった浄心寺の左に円乗寺が描かれています。しかも大円寺よりも円乗寺のほうが大きい表記。
各地域別になっている幕末の尾張屋版江戸切絵図でみると
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幕末の嘉永七年(1854年)、大円寺も円乗寺も大きく描かれています。
円乗寺は寺伝によると、寛永八年(1631年)、本郷から今の地へ移転したことになっています。
なので江戸前、中期の各地図にあるはずなのですが、その時期の地図上で見出せません。
最初は描かれないほどの小さな規模だったのでしょうか?。
なぜ、大きな有名なお寺になったのでしょう?
「八百屋お七」像
お七に関しては戸田茂睡の「御当代記」天和三年(1683年)の記事に……
「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」
と記録されているだけで、それ以外の話、恋仲の寺小姓吉三郎や「逢いたさ募って火を付ける」、「櫓に登って鐘打つ」など、後の著作、お芝居のモデルとして脚色されているのが、現在の「お七」像です。
実家が八百屋だったかどうかもわかりません。
作者が魚屋お七にしていれば魚屋だったかも……それじゃあぁ生きが良すぎる!、鍛冶屋じゃ硬えなぁ、八百屋にしとこ……てぇぐらいのノリです。
解っている事実は「駒込のお七という人が放火の罪で天和三年三月、処刑された」ということだけです。
避難先を円乗寺としている実話風小説「近世江都著聞集」はお七の死の74年も後の成立。
事細かに書いてある他の資料も、つじつまの合わない点が多く、実話風小説です。
大火の火元を本郷の本妙寺としている物語もあり、そりゃ、振袖火事だろっ!とツッコミたくなるものさえあります。
歴史的資料「御当代記」でさえ加筆、改竄とし、疑問視する人もいます。
妄想すると……
真相は何も解っていないのですが、円乗寺は仮に小さなお寺だったとします。
罪人のお墓を建てることはご法度です。
物語で人気になったお七の墓とて建てられる筈もありません。
事件から100年以上経つと史実は風化し遠い闇の中、物語の主人公としてのみ扱われるようになり、物語上で避難したとなっている円乗寺は、これこそビジネスチャンス到来!起死回生のアイデア勝負に勝ち、大きくなったのかもしれません(ほうろく地蔵に関しても後付けのお七ストーリーなのでは?)。
そう思うのも江戸名所図会の牛天神をみて、寺社はテーマパーク、憩いのオアシスだと思ったからです。
行元寺は、仇討ちの碑をわざわざ作っています。
何か人気があるものがないと集客できませんものぉ〜。
円乗寺が観光スポット化していた証拠に、大阪から来た人が天保12年(1841年)円乗寺を見物し、お七の墓のスケッチを残しています。

※井原西鶴の「好色五人女」では、避難したのは駒込吉祥寺となっています。当時、駒込で一番有名なお寺だった吉祥寺は読者に理解されやすかったのでしょう。
※お七の墓は八千代市の長妙寺にもあります。お七地蔵は鈴が森の密厳院と目黒区の大圓寺にもあります。
※寺小姓を山田佐兵衛、生田庄之助といっている物語もあります。などなど
こんなわけで、いろいろ後世の創作ありすぎ ます。
井原西鶴は、史実であるお七処刑の三年後に出版しているので、口伝を元に著したと思われ、全てが創作とはいえないでしょうが、どれが本当か、何が創作かわかりません。
新資料が出てくれば謎も解けるかもしれません。
妄想するに、
お七さんはキレイな若い娘さんで憂いを持っていたのでしょう。
市中引き回しで多くの江戸っ子が見たのかもしれません。
なので人々の心に焼き付いてしまい、数々の物語が生まれたのでしょう。


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