江戸時代、日比谷御門があった日比谷公園の有楽門。ここから入ると、左手に、人があまり通わない未舗装の静かな小径があります。この径をやや進むと胸像が見えてきます。

胸像の下部には……
DR. JOSE RIZAL
NATIONAL HERO OF TH PHILIPPINES
STAYED IN 1888
AT TOKYO HOTEL
LOCATED AT THIS SITE
UNVEILED JUNE 19, 1961
フィリピンの国民的英雄
ホセ・リサール博士
1888年この地東京ホテルに
滞在す
1961年6月19日 建之
とあり、フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士の胸像だとわかります。リサール博士はフィリピン独立運動の指導者で、1896年、国民を扇動した罪で銃殺刑となり命を落とします。明治二十一年(1888年)博士27歳のとき、開業したばかりの東京ホテルに滞在しています。当初は船の乗り継ぎのために二日間だけ滞在の予定でしたが、約二ヶ月間の滞在に延びています。その理由はのちほど……。
しかしながら「この地東京ホテル」という文章が気にかかり疑問が浮かびます。「東京ホテル」という建物がこんなところにあったのでしょうか?
東京ホテル
明治二十年前後、日比谷にはまだ日比谷公園は無く、陸軍日比谷練兵場が撤退して東京市に土地を返還した頃。広大な土地は日比谷ヶ原と呼ばれる空地で盗賊が出るほど荒れ果てたところでした。
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この頃の日本には、横浜や築地に外国人向けのホテルがあったものの、都心には皆無。「東京ホテル」は明治二十年(1887年)六月二十三日開業。帝国ホテル開業に先立つこと三年。欧米人に利用されます。

明治二十年( 1887年)六月二十四日の時事新報に開業の記事があります。「室内には玉突、大玉、カルタ、舞踏室等の設けあり、且つ内外新聞の縦覧所を設け、料理は欧米各国の正式によりもっぱら内外人の嗜好に適するように調理し、出前もするよしなり」。今風に要約すると、「ビリヤード、四つ球、トランプルーム、ダンスホール完備。内外の新聞閲覧室もあり、各国の西洋料理をオーダーメイド。ルームサービスもあります」と本格的な洋式ホテルを誇る内容です。
同じ日の朝野新聞には……
「横浜の汽船問屋鹿島屋の発起にて、有楽町三丁目二番地へ設けたる東京ホテルは昨夜、開業式を行ひたり」とあります。


場所は日比谷御門の南東側、日比谷大神宮(現・東京大神宮)のお隣。


順風満帆の開業を迎えた東京ホテルですが、日比谷は帝都東京の東京市区改正の真っ只中。日比谷通りが幅二十四間に拡張され、内堀も一部埋め立てられ、日比谷公園内の心字池となります。明治後期には晴海通りの開削により三角地帯が出来て東京ホテルは陸の孤島のようになってしまいます。


このように変遷を繰り返した日比谷。東京ホテルも廃業後、建物はブラジル公使館、社交場・日本倶楽部に利用されますが震災で消滅。震災後の帝都復興事業により三角地帯も整備されて消滅します。

現代の地図と見比べると、東京ホテルの敷地はホセ・リサール博士胸像背後の日比谷通り上にあったようです。
さて、なぜ、リサール博士の東京ホテル滞在が延びたかというと……。
博士の秘めた恋
博士の東京ホテル滞在中、スペイン公使館で英語とフランス語が少しできる臼井勢似子 女史に出会い恋に落ちます。勢似子女史はリサール博士を案内するかたちで歌舞伎観劇、日光や箱根まで足をのばします。
リサール博士処刑の悲しいニュースは日本にも伝わり、大正六年(1917年)宝塚少女歌劇団で小林一三は「悲歌劇・リサール博士」を物しています。


しかしながら、この劇には母、妹、許嫁が登場して、勢似子女史はいっさい登場しません。というのも、リサール博士と勢似子女史のふたりは互いに相手のことを秘して生前に口外することがありませんでした。
リサール博士の遺品の中から勢似子女史の写真が発見されニュースになったのは昭和になってから……。

リサール博士の日記にも「Osei-san」として登場。以下は日記からの抜粋です。
目黒不動にも行ったようです。恋していれば、二ヶ月間は短いものだったでしょう。
