笠森お仙と袖頭巾の若侍

【名画を歩く】笠森お仙

明和の三美人といえば、浅草寺内楊枝屋「柳屋」お藤、浅草二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」およし。そして、谷中笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」お仙。

明和の三美人
明和の三美人。

なかでも人気ナンバーワンは笠森お仙。このお仙、錦絵の開祖・鈴木春信に見出され、一世を風靡します。
当代一の風流人・太田蜀山人は「谷中笠森稲荷境内水茶屋女お仙十八歳美女なりとて、皆人見に行。家名を鍵屋五兵衛といふ。錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六、よみ売等出る。手拭いに染まる」と評しています。

晴信の描いたお仙の浮世絵は今でいうところのアイドルブロマイド。人気が人気を呼び「お仙手拭い」「お仙すごろく」などのアイドルグッズが売り出されるほどに。笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」はおおいに流行り江戸中から人が集まり、元祖「会いに行けるアイドル」の誕生です。

昭和の春信

近代になって、お仙人気が再燃することになります。戦前の東京朝日新聞、大阪朝日新聞夕刊(昭和八年九月三十日〜十二月十三日)に連載小説「おせん」が掲載され、この人気のおかげで朝日新聞は発行部数を二万部ものばします。邦枝完二の原作に加えて挿絵を描いたのが日本のグラフィックデザインの祖といわれる小村雪岱です。

東京朝日新聞
昭和八年九月三十日夕刊「おせん」の初回。

小村雪岱の挿絵は浮世絵テイストを残しつつ、新聞という媒体の特徴を生かした洗練されたものです。

雪岱の挿絵と春信比較

「おせん」挿し絵

鈴木春信「三十六歌仙藤原敏行朝臣」

春信のエロスよりも雪岱はアッサリと。

「おせん」挿し絵

鈴木春信「爪切り」

印刷媒体の特徴の一つにスミベタが平坦でキレイということがあげられます。

「おせん」挿し絵

鈴木春信のスミベタ

春信もスミベタをよく使用しています。

お仙のいた水茶屋「鍵屋」は一筆斎文調の浮世絵をもとにしています。

「おせん」挿し絵

一筆斎文調筆「笠森稲荷社頭図」

昭和八年(1933年)十一月五日の挿し絵は新聞という媒体では表現しきれなかったものを描きあらためて、国画院展に出品しています。

昭和八年(1933年)十一月五日付の挿絵
昭和八年(1933年)十一月五日付の挿絵。
国画院展出品作品
細い線描で、より洗練された国画院展出品作品。

谷中の笠森稲荷

鈴木春信筆「笠森お仙と袖頭巾の若侍」。
鈴木春信筆「笠森お仙と袖頭巾の若侍」。

笠森の意味とは?

笠森稲荷の「笠=瘡」「森=守」で、カサブタが出来るような病気(疱瘡、皮膚病、梅毒)から守る神様を祀っています。願掛けには土の饅頭をお供えして、願が叶ったあと、お礼参りには米の饅頭をお供えします。

笠森稲荷はどこにあったのか?

さて、一時代の人気スポット、谷中の笠森稲荷はどこにあったのでしょうか?
台東区史によると、谷中天王寺の子院、福泉院内。しかし、天王寺の縮小に伴い、福泉院は廃寺となリます。その際、笠森稲荷を受け継いだのが桜木一丁目の養寿院。

養寿院の笠森稲荷
養寿院の笠森稲荷。

これが、江戸時代から受け継がれてきた笠森稲荷です。

おせんというお店

お仙人気にあやかって、養寿院の門前には「おせん」という名のお店があります。

さてさて、お仙のいた水茶屋「鍵屋」のあった場所はというと……。

功徳林寺

功徳林寺

廃寺になった福泉院の跡地には、明治十六年(1883年)功徳林寺が創建されます。功徳林寺はあらたに笠森稲荷を勧請。社の工事の際、土饅頭がごろごろと出土したいうので正真正銘の水茶屋「鍵屋」のあった場所です。しかし残念ながら、お仙に関するものは何一つ残っていません。

功徳林寺の笠森稲荷。石畳の雰囲気が浮世絵に似ています。
功徳林寺の笠森稲荷。石畳の雰囲気が浮世絵に似ています。

お仙は、二十歳で御家人の倉地政之助に嫁ぎ、平々凡々で幸せな結婚生活を送ったと云います。

谷中にはお仙と鈴木春信ゆかりのお寺がもう一つあります。大圓寺につづく。

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