江戸の昔から西本願寺(築地本願寺)の大屋根は築地のランドマーク。広重の浮世絵に描かれ、明治の古写真の遠景にも写っています。

また、築地本願寺は門前に多くの子院末寺を持つ大伽藍でした。

明治の大火
「火事と喧嘩は江戸の華」とはいえ、明治維新後も築地本願寺は度々、大火に遭っています。
明治五年(18872年)五月、和田倉門内兵部省添屋敷から出火した大火に類焼、明治十五年(18882年)一部レンガ造の和洋折衷で再建されます。


明治二十六(1893)年九月七日、今後は築地本願寺みずからが火元となって炎上。

この火事で本堂のレンガの壁だけを残し、大屋根は焼け落ち、焼け残った蓮華堂を仮本堂とします。
この頃は火事報告を兼ねて見舞いに来てくれた人々に対して御礼広告を出すのが一般的でした。

明治三十年(1897年)五月には、京橋区区役所より出火、仮本堂も消失します。

明治三十四年になって、ようやく本堂が再建されます。


この年は門前も焼いたので……。
子院末寺も連名で火事見舞御礼広告を出しています。
築地本願寺の寺町
築地本願寺は門前に大きな寺町を持ち、そこには58もの子院末寺。

江戸から震災前までは門前に子院がズラリと並んでいました。

今も場外市場には称揚寺、円正寺、妙泉寺が残ります。



魚河岸の移転
関東大震災で壊滅的被害を出した日本橋の魚河岸、京橋の大根河岸は築地の海軍技術研究所用地に移転し、東京卸売市場鮮魚部、青果部となります。






魚河岸、大根河岸の移転とともに築地を大きく変えたのが帝都復興計画。新しく出来た晴海通りが築地本願寺と寺町を分断してしまいます。


ここでの復興を諦めた多くの子院末寺は山の手へと移転していきます。跡地には日本各地から小売業者が集まってきて、自然発生的に場外市場が生まれます。

墓地跡に建つ場外市場
なにやら幽霊でも出そうな場外市場……。例えば真光寺だけでも、368基の墓を供養していた記録があります。

当時の東京市墓地改葬規則には、
「遺骨箱、甕等ノ残存セザル様、丁寧ニ取纏メ墓石ト共に改葬スルコト」「改装跡地ハ消毒ヲ行イ土地ヲ原状ニ回復スベキコト」
との指示があり、墓石も遺骨も残っていないようなのでホッと一安心。商人の間では「墓地跡で商売を始めると上手くいく」などという巷説があり、中央卸売市場が豊洲に移転しても場外市場は築地で繁盛しています。
