文明開化の象徴としての西洋式庭園である日比谷公園のもう一つの顔は国民広場。政府はここで多くの国家的行事を挙行します。


伊藤博文、大隈重信、山縣有朋、東郷平八郎ら明治の元勲の国葬、国家の祝祭典、国民大会など。

自由民権運動の大会など、それぞれの地方で行なわれるより警視庁に近い日比谷公園で行われた方が一元監視しやすい面があり、お上は許可します。

公園の中央にある日比谷松本楼も大会に利用され、バルコニーは格好の演説スペースとなります。

大正デモクラシーの世相の中、突如として襲った関東大震災は日比谷通りの警視庁も日比谷松本楼も焼き尽くしてしまいます。

避難場所としての日比谷公園
「日比谷公園には門はあるが、門扉無し」といわれ、年中開かれた避難場所としてのもう一つの顔が多くの市民を救います。東京市市民157万人が難民となったといわれ、そのうち15万人が日比谷公園に避難します。



震災後に再建された二代目松本楼は日比谷公園の「国民大会が許可される国民広場」という性格に翻弄される事になります。
二代目松本楼炎上

昭和四十六年(1971年)十一月十九日、沖縄返還協定に反対する過激派学生たちは、午後七時三十分頃、日比谷公園に集結して不許可のデモ行進を強行。公園内の敷石を剥がして投石、機動隊と激しく衝突します。

過激派ゲリラは松本楼の窓ガラスを破り乱入して放火。戦災にも焼け残った松本楼は焼け落ち、翌日の朝、日比谷公園は無残な姿を晒します。


10円カレー
二年後、松本楼は三代目として復活。再再建オープンに際して、事件の時、励ましてくれたファンの方々への恩返しとして採算度外視で10円カレーチャリティ・セールを展開。
売上を交通遺児基金に寄付。苦境を乗り越えた上に社会貢献をする日比谷松本楼。
長い行列をつくる10円カレーチャリティは毎年続き(コロナ禍で中止の昨今)俳句の季語になるほど、毎年恒例の初秋の行事になっています。