日比谷公園が目指した三つの洋とは、見たことのない洋花、聴いたことのない洋楽、そして、食べたことのない洋食。
公園を設計した本多静六博士が「ヨーロッパの公園にはレストランが公園の中央にある。日本にもあって良いのではないか」と提案したことから、洋食店の入札が行われることになります。
銀座六丁目で料亭を営んでいた小坂梅吉は入札予定価格・坪三十銭のところを坪三円五十銭で百五十坪を落札。料理人には本場パリで修行したシェフを招き、「松本楼」の扁額は渋沢栄一が揮毫します。


そのころ流行りのマンサード屋根の三階建、オシャレな店構え、洋食にしては手頃な価格が評判を呼び、馴染みの客が増えてゆきます。
家族連れでよそ行きを着込み、公園を歩いて洋食をいただく、そんなハイカラな「お出かけ」のスタイルを生み出したのも松本楼。ここにはトレンドリーダー、文化人が自然と集まるようになります。
文芸作品に登場
夏目漱石の小説「野分」の中で公園の真ん中の西洋料理屋として描かれています。「ビステキの生焼は消化がいいっていうぜ」と、血のしたたるようなレアのステーキが登場。
「いくら赤くてもけっして消化がよさそうには思えなかった」「ビステキを半分で断念」などと胃の悪かった漱石そのもの。それでも松本楼のステーキは大好物だったようです。
高村光太郎の詩には実名で登場します。
世相を反映した高村光太郎の「涙」
涙
世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ
泣けり
われら心の底に涙を満たして
さりげなく笑みかはし
松本楼の庭前に氷菓を味へば
人はみな、
いみじき事の噂に眉をひそめ
かすかに耳なれたる鈴の音す
われら僅かに語り
痛く、するどく、つよく、是非なき
夏の夜の氷菓のこころを嘆き
つめたき銀器をみつめて
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に
祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた
或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ
人々が夜毎、日比谷の近くに集まって泣いている……不思議に思える光景ですが、この詩が書かれた時期(明治末年・大正元年)の世相を観れば「いみじき事」とは明治天皇のご容体のこと。この頃、日本中の人々が陛下を見守っています。
人々は皇居前広場に集いご快復を祈り、帰りに近くの日比谷公園に寄り、松本楼で静かにお茶をします。

号外を配る人の鈴の音には慣れてしまった。光太郎は銀器に盛られたアイスクリームを食べつつ、しんみりと涙します。ただし、この涙は陛下のためではなく、智恵子への愛。
二人にとっての「いみじき事」とは二人をみる世間の目。

因みに漱石のこの有名な肖像写真も明治天皇の崩御に際し、喪章をつけて撮ったものです。
明治天皇が崩御なされて、新しい時代が始まります。
モボ、モガに人気
大正時代になると、洋装のモダンボーイ・モダンガールは似つかわしい食堂をさがします。流行となったのが「松本楼でカレーライスを食べてコーヒーを飲む」というスタイル。

東京の料理店番付では西の関脇にランクイン。

ますますの人気を博しますが、関東大震災で焼け落ちてしまいます。二代目・松本楼の炎上につづく。