そもそも北の丸公園は江戸城内。家康公の天下普請後、譜代の武家地となります。
ところが明暦の大火は江戸城の天守までをも焼き尽くしてしまう空前絶後の大惨事。
大火を重く見た幕府は連なっていた西の丸の御三家(紀伊・水戸・尾張家)を各地に分散させ明地(火除地)を多く設けます。

九段坂上も火除地となり、幕末は歩兵屯所、明治維新直後に靖国神社が建立されます。




北の丸は、御三卿の田安家、清水家時代を経て、日本初の軍隊「近衛歩兵連隊」時代をむかえます。
近衛歩兵連隊
維新後、北の丸の丘には近衛歩兵連隊の兵舎が建ち並びます。


天皇陛下を護衛するエリート部隊・近衛歩兵連隊は皇居の乾門前に控えます。
やがて正門入口には北白川宮能久親王騎馬像が鎮座するようになります。
北白川宮能久騎馬像
北白川宮能久親王は日清戦争時、台湾植民地戦争の指揮官として台湾に進軍しますが……。
十月二十五日付東京朝日新聞より.jpg?resize=474%2C242&ssl=1)
台南で薨去。つまり皇族として初めて戦死した人物です。
明治政府はマラリアによる戦病死と発表していますが、抗日ゲリラの凶刃に倒れたとの噂が未だにある悲劇の皇族です。占領直後の台湾ならあり得る話かもしれません。
十一月六日付東京朝日新聞より.jpg?resize=474%2C351&ssl=1)
明治政府としては日本軍の威信を保つため、北白川宮能久親王を神格化する必要がありました。
この像は台湾で親王の目前に大砲が着弾して馬が驚いている瞬間を描いたもの。しかし、親王は動揺せずに無傷だったという神話を語っています。
今では西に少し移動しているものの新海竹太郎作・砲兵工廠製造の緻密な彫刻像は美術品としても愛されています。
帝都の近衛歩兵
近衛歩兵連隊は昭和の戦前まで存在。終戦直前の米軍の偵察写真にその全容が写っています。







戦後、森林公園に

昭和三十八年(1963年)建設省が北の丸一帯に武道場、森林公園の造成を計画。これによって、残っていた古い煉瓦造の近衛師団司令部は公園に必要無しとされ、取り壊しの寸前までいきます。

これを聞きつけ異議を唱えたのが文化庁と防衛庁。文化庁は歴史的建造物を残したい、防衛庁は戦争資料館として利用したいと存続を求めます。文化庁の意見が通り、東京国立近代美術館工芸館として生まれ変わり、現在、東京国立近代美術館分館となってお色直し中です。
時代時代で波瀾万丈だった北の丸は歴史を黙して秘め、都心のモミジの名所となっています。