
赤城坂を調べていたとき、明治の地図をみてビックリ!
赤城神社の崖下に「喜楽座」?その近くに「赤城座」?
この明治初期の地図では寺社が赤で示されるお約束なのですが、赤で芝居小屋?
他の地域は芝居小屋は描かれているのかもしれませんが色は民家と同じで「◯◯座」などの明記は無いのが普通。
この地域を担当した人は、そうとうな芝居好きだったと思われます。

神楽坂の寄席とか芝居小屋が載っていれば面白いのになぁ、藁店にあった夏目漱石先生が通った「和良店亭」はどれだろう?といつも思っていたのですが、赤城坂だけ、なぜか芝居小屋の明記があります。屋根の形まで詳しく、どんな建物だったのかも想像できます。赤城神社の境内にある赤城小学校も赤です。
地図オタでないと、(ノ゚⊿゚)ノハア?ですよね。でも、これはうれしい間違いなのです。


ずいぶんと近代的になりましたねえ。
オシャレな観光スポット、神楽坂にはぴったりマッチしそうです。
赤城神社は、正安2年(1300年)群馬県赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が牛込に移住した時、赤城神社の分霊をお祀りしたのが始まりと言われています。
その東側、神田川方面から一気に登る坂が赤城坂です。スリップ防止の丸い凹み(ドーナツ坂と勝手に呼んでます)が付けられた急坂です。
頂上部はなんでこんなに急なのぉ?と思ってしまうくらいの急勾配です。
ここに道を作る必要性があったのでしょうか?
中世の戦略的な道と疑ってしまいます。。。
赤城神社は砦だったのか?
大胡氏(のちの牛込氏)といえば、神楽坂の牛込城を作った一族。この赤城神社もお城に関係しているのでは?
赤城坂中腹から赤城神社をみると、、、

何かあやしい?これって砦かも?
以前考察した牛込城は江戸湾側の監視、ここは内陸側の監視にぴったりな崖上なのです。
これは牛込城の出城、砦、見張り台ではないかと妄想してしまいます。
牛込城と何か繋がりがあるのかもしれません。
侍たちが砦に向かって一気に駆け上がり、敵を待ち受ける場所と思えば、赤城坂の急峻さも意味があるように思えます。
金銀山猫?
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手前に急峻な赤城坂が描かれています。昔も今も同じくらいの勾配でしょう。
赤城神社の裏門への石段も描かれていて、今と変わりありません。

江戸時代、赤城神社の境内と周辺は、江戸黒歴史の一つである岡場所(幕府非公認娼婦街)として有名でした。
しかも神楽坂エリアにはもう一つ、行元寺周辺にも岡場所があったといいます。
神楽坂で遊ぶことを「金銀山猫」といい、金は金一分(25000円)で赤城神社を指し、銀は銀七匁五分(12500円)で行元寺。山猫は「山の手で寝る子」という意味の私娼婦で、はじめは寺僧相手の娼婦だったそうです。
岡場所にもランクがあったようで面白いです。
山猫というのは、この近くの桜木町(大日坂手前)、亀ヶ岡八幡宮の岡場所は山の下、崖の下なので、山の手を強調したかったのでしょうか。江戸っ子は見栄っ張りです (≧∇≦)。

中世には、赤城坂を駆け上る猛者どもがいたのでしょうか?
時は流れてお江戸では、
のんびり登り、遊びにくる若旦那の姿が目に浮かびます。
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