1944年(昭和十九年)七月、サイパン島が陥落します。米軍はサイパン島に滑走路を整備、直ちにB-29を100機以上集結させ、いよいよ日本本土の爆撃準備が整います。



1944年(昭和十九年)11月24日
この日は本土空襲が本格的に始まった日で、複数のカメラマンが克明に記録を残しています。
昼過ぎの12時33分、突如として皇居方面から米軍爆撃機B-29の編隊が現われます。
12時40分、上野方面に向かう編隊の長い飛行機雲と迎え討つ高射砲の黒い弾幕が撮影されます。
神田周辺に空襲警報が鳴り響き、住民、都電の乗客、都電を待つ人々は道路端の防空壕に訓練通り首尾よく避難します。
人々は迎撃する高射砲の音を聞きながら、防空壕の中で、なすすべもなく不安げに空を見上げています。


12時45分、空から大小30個余りの鉄クズが落ちてきて、鎌倉橋の北詰の路面に大きな穴を開け、周辺にも破片が飛び散り建物に被害をあたえます。
破片は頑丈な石造りの橋際にいつくもの弾痕を作ります。
13時30分、通りを封鎖して国防守備隊の面々が被害状況を確認します。
13時35分、鎌倉橋を封鎖して不発弾の破片を拾い集めます。
15時00分、封鎖は解除され人々は家路へと急ぎ、長い一日が終わります。しかし、これは、帝都東京がこれから経験する数々の悲劇の発端に過ぎませんでした。

翌朝の朝日新聞は帝都の空へB29の進入を伝えています。
千代田区の「まちの記憶プレート」を見るとあたかも米軍機の機銃掃射を受けたかのように思ってしまいますが、高射砲の不発弾の被害だと「東京空襲写真集(東京大空襲・戦災センター編)」に書かれています。
1945年(昭和二十年)3月、硫黄島が陥落
これ以降、B29を護衛するP-51戦闘機が硫黄島から飛び立ち、B-29を護衛後、機銃掃射による地上攻撃が頻繁に行われるようになります。
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