「明治事物起原」によると……
明治新政府の陸軍は、西南の役で薩摩軍に包囲されてしまった熊本城内との連絡が取れずにいます。陸軍当局は海軍兵学校の機関士・馬場新八が気球を開発していることを聞きつけ、連絡用気球の製作を依頼したのがはじまり。



明治十年(1877年)三月頃、築地の海軍兵学校で行われた試験飛行の様子が、明治十年(1877年)五月二十八日版の開花絵(三代広重画)に描かれています。

明治天皇のご臨幸を仰いだために急ぎ慌てたのか、その制作は極めて不完全なものでした。
一個は破裂し、もう一個は飛び立ったものの強風にあおられ係留クサリが切れてしまいます。

品川方面に5キロほど流され、堀江という小さな漁村に墜落します(一説に、馬場機関士は360mの高度に達し赤旗の合図で首尾よく降下するも、気球だけ強風に流され、その後、1700mの上空まで達したとか)。
ラッキョウの化け物
突如として空から気球が降ってきた堀江の漁民たちはビックリ仰天。「ラッキョウの化け物が宙から降ってきた!」と大騒ぎ。船の艪で化け物をメッタ叩きにすると、水素ガスが漏れ出し「しぶとい妖怪め、悪気を吐き出したぞおぉ」と。ガスをまともに吸ったものたちは寝込んでしまったそうな。こんなコントのようなことがあった文明開化の夜明けでした。
気球の黎明はさんざんなものでしたが、やがて、カメラを載せた偵察用にと発展してゆきます。
空からの古写真
明治三十七年(1904年)、同じく築地の海軍大学校で、市原撮影技師が偵察写真の実験を行い、帝都東京の中心部を四枚のパノラマ写真に収めます。
明治の終わりはまさに絵ハガキの全盛期。絵ハガキでは部分的にしか写っていないものも全体像を把握できます。

品川から芝

奥が品川方面、中央の森が芝離宮、手前の海辺の森が浜離宮。



新橋

新橋駅は駅舎の古写真が多く残りますですが、空からなら、その全貌がわかります。鉄道は新銭座(東新橋付近)と永楽町(大手町付近)を結ぶ高架鉄道の新永間高架橋を建設中。

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日比谷

奥には今もある法務省旧本館の法務省赤レンガ棟。開園間もない日比谷公園にはまだ噴水がなく、そこは広い大運動場となっています。廃止された鹿鳴館は華族会館になっている時期です。鉄道の高架橋脇に帝国ホテルが見えます。






丸の内、銀座

広い凱旋道路(現・日比谷通り)が目立ち、まだ中央停車場(東京駅)が出来ておらず、丸の内はスカスカ。一丁倫敦の三菱一号館ビルはできています。
一方、銀座は尾張町角(現・四丁目交差点)の服部時計店をはじめ、ビルがビッシリと建ち並んでいます。





ドローンのない時代、明治の終わりの東京の様子が一目でわかる貴重な四枚の空中写真です。