お江戸東京は坂の街。江戸時代、浮世絵に盛んに描かれた名坂が明治維新後の都市開発により消滅したケースがあります。
赤坂の溜池は江戸城の外堀の一部を占める飲料水を貯める貯水池。余剰な水はダムから流れ落ち、落口に立ちこめる轟音から「どんどん」と呼ばれ、江戸の名所となります。
「どんどん」を横目で見、堰をのぼる坂道が「葵坂」。享保の頃の江戸地誌「江戸砂子」には
と、あっけなく葵の花は今は無いと。
水が流れ落ちる堰に登る坂道は、堰上の桐の木前の辻番所付近にタチアオイが群生していたので「葵坂」。
お花畑は無くなっても、大都市江戸でしか見ることができない、めずらしい放水を見物できる観光名所でした。
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溜池には上野の不忍池のようにハスが浮き、護岸のために植えた桐の木の森(桐畠)と相まって明媚な景色が拡がり江戸っ子たちに愛されます。
明治になっても版画に描かれるほどの名所は健在。


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維新後、溜池周辺は公使館・工部省の用地となります。
溜池の埋立て
上水道網の整備により、明治十年(1877年)溜池は埋め立てられることになり、落口の石垣を低くすると貯水池はたちまち小川のようになり、干上がった土地は農地に。
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溜池の落口から水が流れ落ちています。堰の上には大きな桐の木。手前には櫓の石垣。実はこの櫓の石垣が頭を突き出して残っています。

外堀も埋め立てられ主要道路「外堀通り」となりますが、外堀の石垣は官庁街の再開発、地下鉄の駅造成で発掘されます。


葵坂はどこにあったのか?
溜池周辺の堰や小高い丘、葵坂も切り崩して、埋立てに利用されたので、今の溜池はほとんど平坦。どこに葵坂があったのか?サッパリ見当が付きませんが、地図では千代田区と港区の区界が昔の外堀です。
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しかも再開発により葵坂は、都心と湾岸エリアを結ぶ新しい環二通りの一部になっています。
ここが明治初期まで名所だった葵坂。今は平坦な環二通りです。
葵坂は近くの名所、虎ノ門金毘羅宮といっしょに描かれることが多くあります。