この坂の説明をみると……
とあり、天保年間(1831年〜1845年)に開削されたように書かれていますが、実は、その歴史は古く、延宝八年(1680年)の地図「江戸方角安見図」に既に描かれています。

明和九年(1772年)の「再校江戸砂子」には石坂の名称も登場します。
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天保七年(1836年)の江戸名所図会には「裏門」と表記されています。

また、男坂、石坂に加えて、明神東坂の別名もあります。

神田の町火消
「い」「よ」「は」「萬」の四組の献納とは、火消し衆が石材を境内まで引上げ、坂の改修をしたということ。火消人足の寄付だけでなく、火消しが守る担当地区の商人、庶民の寄付が大きいようです。

これら四つの組は明神下一帯を担当。例えば「い組」の担当地区は「本町、本石町、室町、小田原町、本銀町、本両替町、本材木町、本船町、駿河町、瀬戸物町、伊勢町、安針町、万町、青物町、呉服町、岩附町、通一丁目」と大商業地区の日本橋界隈であり、三井越後屋をはじめとする商人の街。おのずと有力な商人は火消しのスポンサーとなり、火事からの避難経路として登りやすい石段の坂を整備します。なにせ、明神下に住んだら十年に一度は焼き出されるのを覚悟しておけと云われるくらい火事の多いところ。
焼け出された人々は石坂を駆けのぼり明神様へと避難します。

大江戸が一望できる景勝地
江戸っ子が愛したのは明神下に広がる大江戸の眺望。湯島の小高い台地の上にある境内から、春は曙、夏は納涼、秋は月見、冬は雪見と粋に洒落込みます。

江戸名所図会には葦簀張の水茶屋が多く描かれ、広重の一枚は水茶屋越しの春の日の出をクローズアップしています。


高いところからの景色に惹かれるのは今も昔も同じ。神田明神境内は絶好の遊山地となります。明治になってもその人気は衰えず、茶屋は一層高い楼閣となり、浅草、日本橋、深川に至るまで見渡せる眺望を誇ります。


明神女坂
「男坂あるところに女坂あり」で南側に多少緩やかな女坂があります。こちらは関東大震災後に整備されでいます。

江戸の大火から多くの命を守った男坂同様に戦災から人々を救います。

関東大震災で焼けてしまった神田明神は、日本初の鉄筋コンクリート造の神社となり、戦災にも負けず人々を守り続けています。