千代田のお城・皇居は戦前、宮城とか明治宮殿と呼ばれます。横山大観は畏敬の念を深く抱き、千代田城を何度か描いています。
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大正十四年(1925年)日本美術院発行「大観作品集」掲載の「千代田城」は遠くに富士山、桜田門の渡櫓、二重橋、伏見櫓、明治宮殿を配しています。



静かなる千代田城
大正十五年(1926年)に描かれた「千代田城」は写実的で画面を静寂が支配しています。
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石垣も克明に描き入れた写実的な水墨画です。
正成公が馳せ参じる千代田城
昭和九年(1934年)の「千代田城」には富士山と外苑の楠木正成公像が描かれ帝都東京の名所三昧。
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正成公像は明治三十年(1897年)年の造立で国宝級の美しさ。楠木正成は高村光雲、馬は後藤貞行の作、岡崎雪聲(せっせい)の鋳造。この三人は上野のお山の西郷さんも製作している明治のスリートップです。
今は無き明治宮殿

明治二十一年(1888年)十月七日に落成した明治宮殿。翌年、ここで大日本帝国憲法発布式が行われるなど、明治・大正・戦前と、皇室・政治行事の中枢を担います。





昭和二十年(1945年)五月二十五日、米軍の爆撃が三宅坂の陸軍参謀本部(現・憲政記念館のあるところ)を襲います。


参謀本部は大破炎上。火の粉は桜田濠を超え、明治宮殿に迫ります。昭和天皇は吹上御苑の御文庫に避難してご無事でしたが、明治宮殿は必死の消火の甲斐もなく全焼。
消火にあたった警視庁特別消防隊は十九名もの犠牲者を出してしまいます。火を止められなかった隊のお詫びに対して、陛下は「戦争のためだからやむを得ない。しかし、多くの犠牲者を出し残念だった」とお嘆きになったと伝わります。宮殿の目の前まで戦禍が迫り、やがて敗戦。

明治宮殿のあった地は現・長和殿となって広場をなし、国民の一般参賀の地となります。横山大観の「千代田城」は歴史を語っています。