【名建築を歩く】湯島切通坂と燃えなかった岩崎家本邸

三菱財閥の開祖・岩崎彌太郎は、明治十五年(1882年)駿河台東紅梅町の弟・彌之助の屋敷地から下谷区茅町(現・台東区池之端)へと移ります。

この頃の岩崎邸は、森鴎外の「雁」に描かれたように無縁坂に沿った白壁と石垣に囲まれた山水の庭を持つ和風の豪邸。

木村荘八画「雁」の挿絵。
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より岩崎邸。
無縁坂坂上から
無縁坂。岩崎邸側はいまでは耐火煉瓦塀。

名作と名曲の無縁坂へ

湯島切通坂

岩崎邸の敷地は徐々に買い足され、南側の湯島切通坂まで伸びてゆきますが、最初、切通坂は江戸旧来の細い急坂。

明治十八年(1885年)東京実測図より切通坂と岩崎邸(クリックで拡大)。

そんな切通坂も明治二十三年、やっと広く改修。が、依然として急坂で、大八車の押し屋がいたほど。下りではブレーキ代わりの引張り屋に変身。使役の牛馬はへたり込んでしまい、雨でも降れば転げ落ちて人馬ともに泥だらけ。

地図明治二十八年(1895年)東京実測図より切通坂と岩崎邸(クリックで拡大)。

当時の岩崎家当主で彌太郎の息子・岩崎久彌は鞭打たれる牛馬を見て
あんなにしなくても動物は言う事を聞くのに……
と、切通坂の途中に水飲場を無償で設置。のちに小岩井農場のオーナーとなる三菱のエピソードです。

東京市電の開通

明治三十七年(1904年)市電を行き来させるため、切通坂は緩やかに改修されます。

明治四十年(1907年)新撰東京名所図絵より湯島切通坂。
明治末の切通坂と岩崎邸。

画家で随筆家の木村荘八の句のなかに
いまごろは 切通坂上 吹雪かな
とあるように、太くて広い切通坂は風向きを変えることとなって、のちの岩崎邸の存続に関わる事になります。

岩崎久彌本邸

明治二十九年(1896年)三菱の顧問に就任したジョサイア・コンドルの設計により、木造二階建ての明治を代表する洋風邸宅、岩崎家本邸が完成します。

明治の邸内図。
現在の旧岩崎庭園。

一家はここの和館を居住スペースとして使い、園遊会などは駒込(現・六義園)深川(現・清澄庭園)高輪(現・三菱開東閣)の別邸で開き、夫妻は馬車、三姉妹はハイカラさんなので、当時としては珍しい自転車で通い、外国のお客様がいらっしゃると茅町の洋館を使います。

コンドル設計の深川別邸(関東大震災で焼失)。

防火帯となった切通坂

関東大震災の際、湯島にも火の手が迫りますが、広小路、不忍池、岩埼邸の広大な庭が防火帯となり類焼を防ぎます。岩崎邸は難を逃れ、千人もの避難民を受け入れます。

広く緩やかになった切通坂も防火帯となりますが、ここで風向きが変わり、坂下の広小路の松坂屋は不運にも燃えてしまいます。

震災前の松坂屋。
震災後、門扉だけになってしまった松坂屋。
現・上野松坂屋。

同じく湯島にあったもう一つのコンドル作品・高田慎蔵邸(湯島三組町五十八番地)は跡形も無く焼けてしまいます。

高田邸。
高田邸のあった辺りは現・三組坂上。

震災に次ぐ第二の災害・空襲

敗戦の色濃い昭和二十年(1945年)二月、毎日のように続く空襲。焼夷弾が庭の東に落ちます。

久弥翁の孫・寛彌はお爺さまの世話役を仰せつかり、久彌翁に付き添い、庭の一角に設けられた防空壕に一目散。
お爺さまの手を握って、無我夢中に走ると鉄兜を思い切り杖で叩かれ……
私たちの行くところはあそこだ
杖の刺す方向には火の手が上がり火消隊がうおさお。久彌翁は陣頭指揮を執り、なんとか消火。それからひと月後、三月十日の東京大空襲で町は灰塵に帰しますが、岩崎邸は焼けずに震災の時と同じように避難民を受け入れます。

切通坂、不忍池など地形的な要因と人々の努力で、災害に打ち勝ち、ジョサイア・コンドルの明治の邸宅建築の最高峰は今日も輝いています。

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