そもそも路面電車が日本中に広まったのは、公害問題が発端。抵抗の少ない鉄路をゆく馬車鉄道はわずかな力で動き、それなりに効率のよい交通機関でしたが……いかんせん、砂塵を巻き上げるうえに糞尿をまき散らすのが難点。これが明治の公害問題としてクローズアップされます。

そんな世相のなか、明治二十三年(1890年)上野に於いて第三回内国勧業博覧会が開催され、電気鉄道が紹介されるや否や、有力な事業者たちがこの新事業に飛びつきます。

旧来のインフラ(馬車鉄道のレール)を利用できて、比較的小規模から始められる通電システム。そして何よりもクリーンエネルギーで公害皆無。

東京市中では、主に東京電気鉄道(外濠線)、東京市街鉄道(街鉄)東京電車鉄道(電鉄)の三社がビジネスを展開。各社とも東京市中全域に路線を伸ばしてゆきます。
御茶ノ水橋
「断崖百尺の下、風光絶景なる辺を御茶ノ水といふ」と新撰東京名所図会に紹介された新しい東京名所の一つ、御茶ノ水橋は明治二十四年(1891年)十月十五日の竣工。

遠くにニコライ堂の眺望と深い外堀の風光明媚な風景。これに帝都・東京にふさわしい名物が加わることになります。
東京の新しい名物「鉄道」
明治三十七年(1904年)十二月八日、東京電気鉄道(外濠線)の御茶ノ水ー土橋(新橋近く)間が開通。御茶ノ水橋の上を路面電車が渡ることになります。

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さらに同年十二月三十一日、甲武鉄道の飯田橋ー御茶ノ水の電化区間が開通(のちに国鉄となり国鉄初の電車となります)。

甲武鉄道と東京電気鉄道の電車が立体交差する御茶ノ水橋は先進的な東京名所となります。





やがて路面電車三社は合併して東京鉄道株式会社となり、明治四十四年(1911年)東京市がこれを買収。路面電車を公営化し、東京市電はスタートします。
このように発展を遂げていた東京ですが、関東大震災で大打撃を受けてしまいます。
帝都復興計画

ニコライ堂のドームは焼け落ち、御茶ノ水橋も上部が焼けて市電の荷重に耐えられなくなってしまい、帝都復興計画の一環として架け替えることになります。



昭和六年(1931年)架け替えられた二代目・現在の御茶ノ水橋にもレールが敷かれ、東京市電が復活。サブ13系統錦町線(御茶ノ水ー錦町河岸)が御茶ノ水橋の上をゆきます。



錦町線は錦町河岸から駿河台下、長い文坂を登って駿河台の御茶ノ水へ。



昭和十八年(1943年)七月一日、東京都制が施行されるも、しばらくの間「市電」の愛称で親しまれますが……。
戦時下の路線廃止
徐々に戦争の影が暗く垂れ込めてゆき、昭和十九年(1944年)四月二十九日付けの新聞紙面に、五月五日より休止(事実上の廃止)する路線のお知らせが掲載されます。
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以来、路面電車のレールはアスファルト、コンクリートの下に埋れてしまいます。
令和の発掘
令和二年一月、御茶ノ水橋の改修工事に伴い、市電のレールが出土。これは昭和十九年(1944年)五月四日まで使われていたものです。
工期は令和七年三月までの予定。日々工事は進み、今後、何が顕れいでるか注目です。