一日でも早く欧米の文化、建築水準に追いつきたい明治新政府は、工部大学校造家学(建築科)教授として、明治十年(1877年)25歳の若きジョサイア・コンドルを迎え、国家的事業の建築を急ぎます。その建築とは……。
鹿鳴館
幕末、徳川幕府が外国使節を接待するために使用していたのは浜離宮内の延遼館。

外務卿・井上馨は西洋化された接待施設が必要と説きます。
井上は留学、海外視察経験も豊富で、欧米では社交場での外交活動が主流との考えがあり、接待社交場「鹿鳴館」の設計をコンドルに急がせます。がしかし、日本には日本らしい西洋建築と考えるコンドルは、和洋折衷のデザインを提案し、井上から何度もダメ出しされてしまいます。
井上にしてみれば、不平等条約の改正(領事裁判権撤廃、関税自主権獲得)に向けて、14万1633円(いまの金額で5億6千万円)も掛けて西洋式の社交場「鹿鳴館」で社交外交しようというのですから必死です。


その鹿鳴館、出来上がってみれば門は江戸伝来の薩摩藩別邸「装束屋敷(朝鮮使節が着替えに利用していたため装束屋敷と呼ばれる)」の門を流用。庭には石灯篭、前庭の池には屋形船を浮かべ、イタリアルネッサンス様式にかかわらず、二階のベランダの柱はイスラム調と多様な文化の寄せ集め。



明治新政府の度重なるダメ出しの結果「まるで温泉リゾートのカジノ」などと欧米人から揶揄される始末。
明治初期のコンドル
大臣並の給料で雇われたコンドルの使命は西洋建築の設計、教え子と共同で設計して自分の持つ技術の全てを弟子たちに伝受すること。明治初めのコンドルといえば、鹿鳴館をはじめ……





明治新政府のダメ出しにもめげず使命に一途なコンドルに対して弟子の曾禰達三、辰野金吾らはよく学び、独立してゆきます。

コンドル自身も教職を辞して、建築事務所を開設、日本に永住する決心をします。
丸の内改造計画
西郷さんが挙兵した明治十年(1877年)の西南の役ののち、明治のご維新も一段落。落ち着いた皇居の周りから軍隊の移転が始まります。

とくに馬場先門外周辺は陸軍の施設(東京鎮台騎兵、陸軍本部、練兵場など)が移転すると広大な空地となり、人力車俥夫らが集まり白昼堂々と賭博を開き、通称「賭博ヶ原」と呼ばれます。

この広大な空地を明治新政府は競売に出すことにします。
買い占めた三菱財閥
岩崎彌太郎にスカウトされた三菱財閥最高幹部の荘田平五郎が、イギリス・グラスゴーのホテルで、丸の内の土地が売りに出たとの新聞を見るなり、二代目社長の岩崎彌之助に「買い取らるべし」と電報を打ちます。彌之助はこの電報を受け、即、買い取りを決意。その頃、躊躇していた渋沢栄一を出し抜きます。


三菱が落札した土地は、しばらくの間、手つかずの状態がつづき「賭博ヶ原」から「三菱ヶ原」と呼ばれてしまいます。
明治二十一年(1888年)コンドルは三菱にハンティングされます。三菱では弟子の曾禰達三が手腕を振るっており、丸の内に日本初の貸しビル、賃貸オフィスビジネスを計画。ここにイギリスの倫敦(ロンドン)のような金融街を作ろうというのです。
明治新政府の束縛から解放されたコンドルが飛び立つ時が来ます。彼には日本には日本らしい西洋建築とのビジョンがあります。まず、三菱は買い占めた土地の一部を東京府に寄付。


東京府庁舎(現・東京国際フォーラム)前に幅広の馬場先通りを作ります。これは日本橋・銀座通りと同じ幅。日本橋・銀座通りは火除け地としての広い幅を持ち、これは当時の西洋の街にも無い幅広で日本流。建築物は朱塗りの日本の寺社に見立てて赤レンガ造り。屋根に突き出たドーマー窓は寺の塔を思わせます。

三菱はコンドルのアイデアを受け入れ明治二十七年(1894年)三菱一号館ビルは落成します。

その後、二号館、東京商工会議所と建ち並んでゆきますが、人気は今ひとつ。長年、日本の建築に慣れ親しんだ人々にとっては、立派な館には門があり前庭があるのが当然との考え。門の無いビルは「門なしは文無し」に通ずるなどと言われて商人たちから敬遠されてしまいます。がしかし、馬場先通りが日本一のメインストリートになる事件が起こります。
馬場先門圧死事件
明治三十七年(1904年)五月三日、日露戦争において九連城が陥落、日本軍の連勝に日本中が沸きかえります。
五月八日、戦勝を祝う提灯行列の群衆が広くなった馬場先通りから皇居前広場へと押し寄せ、江戸旧来の狭い枡形を持つ千代田城馬場先門で圧死事故が起きてしまいます。

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これを重く見た政府は馬場先門の枡形を撤去。馬場先通りから続く広い凱旋道路に改修します。


馬場先門に代わって奉祝門が作られ、戦勝のたびに日本全国から人々が集まり、昼夜ともに沸き立つ日本一のメインストリートとなります。



三菱の作った西洋風貸しビル街は「一丁倫敦」と呼ばれ日本全国に知れ渡ることとなります。

明治末年、警視庁に登録の自動車は36台。来たりくる自動車社会を予見したかのような広い馬場先通り。
賃貸ビルビジネスは定着し、サラリーマン(丸の内のエリートという意味)という新語も生まれます。

関東大震災、戦災をくぐり抜けたコンドル設計の三菱一号館ビルですが、老朽化のため、昭和四十三年(1968年)取り壊し。平成二十二年(2009年)可能な限り復元して美術館として蘇ります。


日本文化に深い造詣を示したコンドルは永住し、多くの作品を残してゆきます。
