キリシタン坂の項でも触れたようにこの坂は明治以降に開削された坂なのでキリシタン坂というにはどうかなぁ?と思っていました。
しかし、文京区教育委員会がいうようにこの坂が真のキリシタン坂と言えるかもしれません。
「キリシタン屋敷」を調べていると、この坂はキリシタン屋敷の門へと通じる石段の坂道だったのかもしれないという疑念が湧いてきたからです。


キリシタン屋敷は島原の乱(寛永14年(1637年))鎮圧の8年後、正保3年(1646年)に造営されました。敷地は宗門改奉行、大目付の井上政重の下屋敷を改修したもので、切支丹牢屋敷、山屋敷ともよばれていました。
いまでは全く痕跡すら残っていません。あるのはここにキリシタン屋敷があったことを示す碑のみ。
どこからどこまでがキリシタン屋敷だったのか、明確にする手立てもありません。
それもそのはず、キリシタン屋敷は長い江戸時代の中で存在したのは明らかなのですが、その必要性が徐々に薄れ、規模も徐々に縮小され、江戸時代後期には消滅しています。
何もないがゆえに妄想が広がります。
キリシタン屋敷図

キリシタン屋敷は秘匿が重要であったため、資料は殆ど残っていませんが、キリシタン屋敷図なるものが残っています。
それを見ると表門、石段があり、川が描かれ、川にかかる「獄門橋」が目に入ります。獄門橋とは只ならぬ名です。
調べてみるとこんな資料がありました。
文化年間(1804〜1818年)、小日向本法寺の住職、大浄敬順(一方菴)という人が物した「遊歴雑記」に
東武小日向切支丹屋敷といふは荒木坂の上二丁にありて七軒屋敷につづき、蜥(トカゲ)坂の北に隣る。屋敷の地面高低ありて四千余坪ありとなん、即ち屋敷の真中に二十余間四方に石垣を築き、まわりに高さ九尺の板壁を構え、中に家作し門を二重に作る。…(略)…當時御金蔵の錠を擦り切り若干の金子を盗取し盗賊三人、程なく相しれ、切支丹坂下の中路、板橋の際にならべて獄門に懸けらる。是より此橋を獄門橋と号けしが◯よろしからぬゆへ、今は幽霊橋といへり。(◯は読めない)
怖っ!盗賊の獄門首を並べたところだと!
その獄門橋の場所はいまの丸の内線の隧道あたりだといいます。
隧道の壁からは地下水が染み出していて、ここに川があったことを示しています。

夜走ると気味が悪い。(幽霊橋でも甚だ怖し!)
盗賊二人と手引きをした門番一人の計三人と言っている資料もあります。




また文中にある七軒屋敷はキリシタン屋敷を守っていた七人の役人に与えらた土地の名前。
荒木坂は一度消滅して現在復活しています。
蜥(トカゲ)坂は今の蛙(カエル)坂です。「トカゲ」が「カエル」に変わっているし、嫌な過去は消し去る力、ソフトにしたい力が働いている(*’д’*)そんな匂いがします。
隧道(丸の内線のガード)が獄門橋だとすると、文京区公認キリシタン坂は石段でキリシタン屋敷の表門へ通じる坂ということになります。
明治初期の地図を見ると、、、

この明治初期の地図では文京区教育委員会が庚申坂といっている坂が切支丹坂となっていて、元キリシタン屋敷一帯には茶畑が広がっています。七軒屋敷の七軒のブロックがそれぞれ畑になっていて面白いです。
石段も無いし、道すら無い。キリシタン屋敷の廻りに空堀があったといいますが、空堀の痕跡も見い出せません。
こうしてみると蛙坂がキリシタン屋敷の裏門に見えなくもないです。
キリシタン屋敷の碑
あれ?この碑の近くに拷問石なるものがあったような記憶がありますが、今はありません。
時代劇の拷問シーンでよく見る正座させた人の膝に乗せる平たい石だったような?。
建物の建築で余った石なのか、敷地から出てきたものなのか?
今思えば、あれは昔の石段の石だったのかも知れません。

キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。 最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。 平成24年3月建設 東京都教育委員会
この説明文も疑惑の対象?ですね。
「寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました」と言っていますが、文化年間(1804〜1818年)に、小日向本法寺の住職、大浄敬順(一方菴)が小日向切支丹屋敷について書いています。記憶をたどって書いたものなのでしょうか。
そして、キリシタン屋敷は天保十四年(1843年)の切絵図にもあります。

これを初めて見た時、衝撃を受け、キリシタン屋敷を調べるようになりました。天保十四年(1843年)までキリシタン屋敷は存在したのでしょうか?
キリシタン屋敷は廃止されたとはいえ、「キリシタンヤシキ」という地名で残ったのか?
それとも、隠れキリシタン取り締まりの何らかの施設は残ったのでしょうか?
この1843年の地図には謎が、、、
「キリシタンヤシキ」が二つあります。
周知の小日向キリシタン屋敷(下のほう)と、もう一つは白山の網干坂、氷川田圃の近くに「キリシタンヤシキ」があります。
ネット上でも、誰も指摘していないので、すごく気になり文京区ふるさと歴史館で聞いたら、、、
「地図の間違いじゃないですかぁ?」と明るくご返答をいただきました。
うーん、それも一理あります。
江戸、明治の地図にはアッと驚く間違いは多いですから。
【追記】謎が解けたかも、、、
元禄年間(1688-1703年)江戸大絵図を手に入れ、よーく見ると、白山近くの「キリシタンヤシキ」は「切支丹奉行組」という組屋敷になっていました。
隠れキリシタンを取り締まるお役人のお住まいです。

いずれにせよ、1792年にキリシタン屋敷は廃止されたという表記は、地図上では疑問が残ります。
実は開国後もキリスト教は邪宗扱いで、正式に解禁されたのは明治6年(1873年)になってから。100年の間、なんの組織も無かったとは考えづらいです。
キリシタン灯籠?
キリシタン屋敷跡近く、蛙坂を下りると深光寺というお寺があります。
深光寺には滝沢馬琴と、晩年に失明した馬琴を助けて執筆した路(みち)の墓があり興味深いですが、お寺の目立たないところにひっそりと「キリシタン灯籠」があります。



キリシタン灯籠は織部好みの灯籠で、江戸初期、古田織部が、キリシタンが愛でている灯籠に美を見い出し、その意匠のみを真似て作ったものだといわれています。
特徴は石竿部分が十字架の形、アルファベットの組み合わせの刻印(ヘブライ語でQahal=集会、教会の意味)、下部には聖人のような地蔵菩薩が彫られていること。
下部に彫られた地蔵菩薩は宣教師、聖人に見えますわ(*’ヮ’*)。
マティスが描いた聖人っぽくさえあります。
しかし、キリシタン灯籠と呼ぶのに否定的な学者も多いです。
私も初めてみたときはビックリ!これは隠れキリシタンの遺物じゃ!と興奮しましたが。。。
調べてみると、これは当時のハイカラ好き、新しい物好きの思考が生んだものであると考えるようになりました。
こりゃ、茶道具の一つ、織部灯籠ですな。
しかしながら妄想を広げて考えると、、、
もしも隠れキリシタンがいて、キリシタン灯籠を愛でていたとします。見つかったときは「これは織部灯籠なので形がキリシタンっぽいだけだぜぇ、このすっとこどっこい!」と言い訳が立ちますね。
キリシタン屋敷跡に近い深光寺にあるキリシタン灯籠。
宣教師のそばで暮らしたいと思った隠れキリシタンがいた!と妄想すれば、歴史のロマンが広がります。
真実はわかりませんが。。。
隠れキリシタンについて
このような説があります。
隠れキリシタンは江戸時代後半でも多くいて、弾圧はされなかったという話があります。
普通は誰でもどこかの仏教の宗門に入っていなくてはいけないところを「宗門知らず」つまりは、どの仏教宗派にも属さないことにしていたと。
キリシタンは弾圧すると怖い、団結すると島原の乱のように怖い。ならば見て見ぬふりを決め込むようなところがあったといいます。
弾圧すると第二の島原の乱になりかねない、磔にしてもキリシタンにとっては神のおそばに行ける殉教の喜びなので効果がありません。
しかも弾圧して殺せば年貢を納める領民の数はどんどん減ってゆくだろうし、支配者自身の首を絞めることにもなります。その内に一揆が起こる可能性もあります。
ならば、疑わしいものは見て見ぬふりするのが一番よい。
そのように柔和な政策をとったのでキリシタン屋敷の必要性が薄れていったのでしょう。
しかも黒船が来て開国。外国に対して歴史の恥部は隠したい!キリシタン屋敷は無かったことにしたかったのでしょうか?
歴史の闇の中です。

【追記】
マンション建設が行われていた上記のエリア。建設に伴う発掘調査でイタリア人宣教師シドッチの遺骨が見つかりました。
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