江戸伝来の浮世絵とは違う、リアルな明治初期の東京の姿を写した版画のシリーズ「東京真画名所図解」。
小林清親の弟子・井上安治は誇張なくデフォルメもなく、江戸から東京へと文明開化で変貌してゆく街を、ありのままに、そして詩情豊かに描いています。
江戸から東京へ
元治元年(1864年)浅草生まれの井上安治は明治維新を経験し、江戸から東京となって間もない街を絵葉書大のサイズの木版画に込めています。カラー写真の無い時代、今で言えばインスタ映えするような数々の光景。


二重橋(正門石橋、正門鉄橋)をふだん目にしているわたしたちにとっては新鮮に思える木橋だった頃。
水の都・東京。明治の初めは日本橋も木橋。


昌平橋辺りからの風景も昇平坂、淡路坂、二つあわせて相生坂が見えます。

古地図と見比べないと何処だか全くわからない風景もあります。
海軍用地の築地
築地海軍省と題するこの版画はこれが東京かと思えるほど閑散とした静けさに満ちています。


古地図をみると、訓盲院(盲学校)と海軍兵学校の前に大きな空地。明治の初めは大名屋敷が無くなり何処も空地だらけ。雪の上がった日に万年橋辺りからスケッチしています。





最近まで魚市場であった築地は明治の頃は海軍用地。手前には日本をこよなく愛したお雇い外国人、ジョサイア・コンドルの設計による訓盲院。レンガ造りのこれは上から見ると十字架の形をしている立派な西洋建築ですが、この時期のコンドルの代表作といえば……。
鹿鳴館
「鹿鳴館時代」と日本史に名を留める建築ですが、極端な欧下政策、欧米列強に媚び売る「媚態外交」の象徴と揶揄され、わずか四年で歴史の表舞台から消えてゆきます。

井上安治は月夜に浮かぶ夜会の館を、師匠・小林清親ゆずりの光線画で、暗闇の中、はかない静けさに沈めています。


鹿鳴館の行く末を暗示するかのように、庭のベンチに山高帽の紳士がひとり座っているのが印象的です。
明治二十年(1887年)不平等条約の改正に失敗し外務卿・井上馨が辞任。鹿鳴館時代は終わりを告げます。
今では内幸町のその敷地にプレートが一枚あるだけです。
明治二十二年(1889年)井上安治も二十五歳で夭折。彼が残した記録画とも言える版画のおかげで、産声をあげたばかりの大都市・東京の原風景を感じとることができます。