お江戸の頃はお月見の名所と謳われた九段坂。小山のような急坂を登ると星月夜が近くに見えたということでしょうか、坂の町・江戸でも一二を争う人気の観光スポットでした。


かの葛飾北斎は西洋の遠近法をいち早く取り入れ、九段坂を描いています。

西洋画の影響で文字もアルファベット風。横を縦にすると……
「くだんうしがふち」と読める北斎の遊び心。
江戸の名坂には、ご維新後すぐ、さらなる名所が加わります。
常燈明台
戊辰戦争に勝利した明治新政府は、明治二年(1869年)九段坂の坂上に、犠牲者を弔うため、招魂社(のちの靖国神社)と常燈明台を建立します。




明治新政府の威信を示すため、常燈明台は九段坂の夜を明るく照らし、東京湾からも見え、行く船は灯台として利用します。




常燈明台は新しい時代の江戸から東京に生まれかわった帝都のシンボル、まさに元祖・東京タワーというべき存在。さかんに錦絵に描かれます。

九段を描いた絵の中で、小林清親の木版画「光線画」は異彩を放ちます。

波乱万丈な清親
小林清親は下級幕臣の家に生まれ、十四代将軍・家茂公に付き添い上洛。鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸でも上野戦争で戦います。
維新後、剣豪・榊原鍵吉率いる剣客一座に加わり、木戸銭で飢えをしのぎ、河鍋暁斎に絵の手ほどきを得、写真家・下岡蓮杖に師事。
幕末の動乱期から文明開化の新時代にかけて、常にビックネームと共にいた清親でしたが、画家として開花します。
光線画
清親が新しい木版画「光線画」を生み出した背景には写真技術を学んだことがあるようです。
当時、外国人のお土産として、エキゾチックな日本の写真は大人気。白黒写真に色を手書きする着色写真をはじめ、当時の技術では撮れるはずのない夜景を思わせる月光写真のレタッチ技術も現れます。
この芸術的な月光写真の雰囲気を取入れ、光線画は生まれます。
サイレント映画の一コマのような九段坂上の情景、雨の中を急ぐ人々の動きが路面にリフレクトする光によって伝わります。
清親は「九段坂五月夜」の他にも印象的な多くの光線画を残しています。



小林清親のダイナミックなコントラストを放つ光線画の手法は弟子の井上安治に受け継がれてゆきます。