享保七年(1722年)一月二十一日、和田倉門外、辰ノ口の評定所前に設置された目安箱に訴状を投げ込む一人の男がいます。


八代将軍吉宗公は数ある訴状を吟味するうちに施薬院設置に関する訴状に目を見張り、御用取次・有馬氏倫にこう告げます。
「この訴状の小川笙船なるものを召し出し詳しい話を訊き、直ちに検討せよ」
小川笙船なる男
小川家のルーツは豊臣秀吉に仕え伊予国今治(現・愛媛県)に七万石を与えられた大名。関ヶ原で西軍についたのが運の尽き。子孫は没落し、いつの頃か町医者を稼業としています。
四ツ谷に近い麹町の長屋で町医者を営む小川笙船(しょうせん)には仕事柄、常に感じていることが……。
江戸への地方からの人口流入は増える一方。農家の次男三男坊のひとりものが江戸で職を見つけるのはしごく簡単なこと。「宵越しの銭は持たねえっ」などと威勢のいいことを言っているが、いざ、怪我病気になると仕事には出れず、看病してくれる身内も無し、薬を買う金も無し。こうして孤独死を迎えるものが、どれだけ多くいることか……。
有馬氏倫に呼び出された笙船はこの現状を打破するためには誰でも無料で介護、医療が受けられる施薬院の必要性を解きます。
それを聞いた吉宗公はさすがの名君。
戦乱の世では敵から領土、そこに暮し働く民を守るのが武士の役目だったが、江戸の太平の世では怪我病気から民を守るのが武士の務めと笙船の意見に賛同します。
博学で自らも薬の調合を行う吉宗公はさっそく、南北の両町奉行・大岡忠相、中山時春を呼び出し改善策を思案させます。
施薬院
五代将軍綱吉公の館林藩時代の下屋敷であった小石川御殿はこの頃、一部が薬草を栽培する幕府直轄の御薬園になっていました。

町奉行はこの地に目を付け、御薬園を拡張、施薬院を設けて身寄りの無い庶民を救済することを計画します。

この地図をわかりやすくすると……

旧御薬園を管理していた芥川小野寺元風の持ち場を拡張、新たに東側も小普請組の岡田理左衛門に管理させ、東の御殿坂から西の簸川神社脇の網干坂まで、いまの小石川植物園と同等の規模(東京ドーム三個分)とし、中央に新たに道を切り開き、施薬院を設けます。




施薬院にも町奉行所から役人を派遣して入所の吟味をさせ、医師が治療に専念できる環境を整えます。
巷の風評
小石川御殿の地に、ものものしく新御薬園の大工事が始まり、施薬院なる怪しげなものを作っていると人々はウワサします。そもそも施薬院というネーミングは律令制に登場する古いもので庶民には理解不能。開所の直前になって名称を「小石川養生所」とします。これは当時、貝原益軒が著した健康指南書のベストセラー「養生訓」に便乗しての命名。庶民はやっとのことで医療施設だと理解します。



享保七年(1722年)十二月十三日、小石川養生所は晴れて開所をむかえますが、幕府が思ったほどの入所希望者が訪れません。
江戸市中では、無料で治療などとうまいことを言って、新しい薬の人体実験材料にされるのでは?と恐ろしいウワサが飛び、タダと言っても命をとられちゃあ元も子もねえ〜と、江戸っ子たちは怯えています。
幕府の努力
そこで町奉行は町名主を集めて小石川養生所の見学会を開催。また、手続きも簡素化して町名主を通さなくても入所できるようにし、町触れを出します。

幕府の努力の甲斐あって入所希望者数は徐々に増え、肝煎職(所長)の小川笙船は吉宗公に御目見えできるほどになりますが、出世には、とんと興味が無く、養生所が軌道に乗るとあっさりと辞任。息子に継がせ、以後、小川家が代々、肝煎職を努めます。
御薬園は幕末までに縮小。しかしながら養生所の開所当初の収容上限40名から幕末には150名まで拡大。
の養生所.jpg?resize=474%2C232&ssl=1)


名水と謳われた幕末の井戸だけが今日も東京大学小石川植物園に残り、関東大震災の際は難民を救います。

小石川植物園の高台はお役屋敷や養生所跡で、小さいながらも薬草園もあります。

切り通し新道は消滅していますが、鍋割坂(病人坂)と思われる名残り。
小川笙船は赤ひげ先生のモデルとされ、時代劇にたびたび登場する吉宗公ー大岡越前ー小石川養生所ラインを思い起こす小石川植物園です。