逝ってしまった明治を想う三美人姉妹作に於いて「築地明石町」「新富町」に比べて「浜町河岸」は華やかで初々しい趣を持っています。

鏑木清方は明治三十九年(1906年)二十八歳のときから六年間、日本橋浜町に居住。ほかの二作は幼少の頃の思い出の町を懐かしむように描き、「浜町河岸」は少しばかり大人の目線で描いています。
この頃の清方は雑誌の口絵や新聞の挿絵で好評を博し、モノクロの線画でさえもハッとするほど美しく、美人画名人の片鱗を見せ始めています。

「浜町河岸」
「浜町河岸」は昭和五年(1930年)に描かれた明治の三美人シリーズ最後のもの。
踊りの稽古帰りの娘さん。稽古が厳しかったのか、少し上気し頬を赤らめています。扇子をくわえ、はてな?はてな?とお師匠さんに注意された箇所を思い出すような可愛らしい仕草。川沿いの浜町を表すように松竹梅模様の着物の下にのぞく青い流水文。
しかしながら背景は浜町ではなく、深川安宅町と新大橋。
なぜでしょうか?
隅田川沿いの浜町河岸
明治の浜町河岸は隅田川(大川)上流に両国橋の長い鉄橋、河辺を市電がさっそうと走り、近代化を象徴するような町でした。

これを背景にしても良さそうだと思ってしまうのですが……。
浜町のどこに住んだのか?

清方が住んだのは日本橋区浜町二丁目。このエリア内の旧細川邸内二號という住所で、もう少し古い地図でみると……。

細川邸とあり、ここは現在、浜町公園となっています。公園の堤防を登ると対岸に拡がるのは深川と新大橋。


家の近くには久松町。明治の東都三大劇場といえば、木挽町の歌舞伎座、新富町の新富座、そして久松町の明治座。



浜町には歌舞伎踊りの藤間流・二代目藤間勘右衛門の家があり多くの生徒が通います。
清方は自宅から見える風景、隅田川沿いを上流に向かって歩く稽古帰りの娘さんを描いたのです。
深川安宅町
背景が深川の安宅町と新大橋なので「浜町河岸」は別名「大川端」とも呼ばれます。
安宅町と新大橋を描いた最も有名な絵は安藤広重の「おおはしあたけの夕立」。
浮世絵の代表ともいえるこの絵にも「浜町河岸」にも火の見櫓が描かれています。
この火の見櫓は関東大震災前まではあったと清方自身は回想しています。


清方は浜町について美しい文章を残しています。
「夕潮の満ちて来る時分、河岸に佇んで、だぶり、だぶりと大うねりに寄せて来る波が、石垣に横なぶりにうちつけて、飛沫は岸に白く散る、やっぱりいいなと思ふ。そんな時、お盆のやうなまんまるい赤い月が、深川の家の棟に上って来る。あたりが暗くなると、広い大川を横ぎって、帯を流したやうに金波銀波がゆらめく、さうなると藍の香の高い派手な浴衣が偲ばれる、浮世絵が在った昔から、未だに変わらぬ趣だが、いつも初音の心地こそすれだ」
鏑木清方文集より
木橋だった新大橋
画面右にうっすらと描かれた新大橋も清方が浜町に住んだ頃はまだ木橋のままで、明治四十五年(1912年)鉄橋に架け替えられています。




「浜町河岸」は逝ってしまった古き良き明治を越えて、明治の末まで残っていた江戸の面影、浮世絵へのオマージュさえも内包しています。