鏑木清方「新富町」

【名画を歩く】鏑木清方「新富町」

昭和二年(1927年)「築地明石町」は第八回帝展に於いて帝国美術院賞を受賞。その三年後、スポンサー(箱書には、たかしまや 昭和五年九月一日)の依頼を受け「築地明石町」の左右に思い出の地の名を冠した明治美人姉妹作として「浜町河岸」「新富町」を描くこととなります。

清方の明治の三美人連作。「浜町」「築地明石町」「新富町」。
清方の明治の三美人連作。「浜町河岸」「築地明石町」「新富町」。

新富町

「新富町」の背景は明治の人なら誰でも知っていた新富座。つぶし島田の髪型の女性は秋雨の中を急ぐ新富芸者だと、すぐに分かる構成になっています。そして、新富座の絵看板は「仮名手本忠臣蔵」。

新富座の絵看板

新富町の近くには、元禄の頃、赤穂浪士が歩いた引き揚げルートが存在。築地川が流れ、赤穂浪士が渡った軽子橋や浅野内匠頭邸跡があり、この地の特色もさり気なく語っています。

浅野内匠頭上屋敷跡の碑。
浅野内匠頭上屋敷跡の碑。

「真実の忠臣蔵」を参照

新富座

ご維新後、築地の外国人居留地の客を見込んで京橋区新富町に花街ができ、浅草猿楽町から歌舞伎小屋「守田座」が移転してきて、明治七年(1874年)守田座は新富座と改名します。

初代新富座
初代の新富座。

初代の建物は火事で焼失、清方の生まれた明治十一年(1878年)それまではロウソクの明かりで芝居を観るのが当然の時代に、ガス灯を完備した最先端の劇場として新築されます。

明治十一年新築なった新富座
明治十一年新築なった新富座。
大正時代の新富座
大正時代の新富座。

明治二十二年(1889年)木挽町に歌舞伎座が出来るまでは新富座は東京一の芝居小屋として一時代を築きます。

東京歌舞伎座
東京歌舞伎座。

木挽町一丁目に住んだ鏑木清方にとって新富座は目と鼻の先の近所(約200m)。幼少の頃から芝居好きの祖母、母に手を引かれて芝居見物に出かけてゆきます。

木挽町一丁目十一番のエリアと新富座のエリア。赤穂浪士が渡った軽子橋と鉄砲洲稲荷。
木挽町一丁目十一番のエリアと新富座のエリア。赤穂浪士が渡った軽子橋鉄砲洲稲荷(クリックで拡大)。

鉄砲洲稲荷近くの私立鈴木小学校に通い、新富座前は通学路となり、その風情は幼い心に深く刻まれます。

鉄砲洲稲荷
鉄砲洲稲荷。

築地橋

新富座は歌舞伎座が出来る以前には東都劇場の首座を占めてゐた。明治演劇の興隆にとって大きな功績を挙げたのである。築地橋は新富座の傍にあって、たちならぶ多彩の幟(のぼり)に橋の袂を飾った
鏑木清方「東京築地川」築地橋の詞書より

東京名所図会より新富座。
東京名所図会より新富座(クリックで拡大)。
築地橋を渡った現在工事中のビルが新富座のあった所。
築地橋を渡った現在工事中のビルが新富座のあった所。

学校を落第

育った家の近くに新富座があったことは幸か不幸か?私立鈴木小学校は新富座に近いということで役者、芝居関係者の子弟が多く通い、清方少年は彼らと机を並べます。

両親、祖母の血をひいて清方も芝居見巧者。清方少年はいつしか役者になりたいという夢を持ちはじめます。

学校をサボり、鉄砲洲稲荷の境内で役者の息子と芝居の稽古事をしていて叱られ、挙句の果てに学校を落第。役者になりたいと言い出したものですから、父・伝平はカンカン。物置に一晩、監禁されてしまいます。
さすがにそれ以来、役者になりたいとは言わなくなり、父の興した「やまと新聞」に新作落語を寄稿していた三遊亭圓朝のすすめもあり水野年方の弟子となって収入の安定した挿絵画家の道へと歩み出します。

十三歳で弟子入りした頃の写真(右)。
十三歳で弟子入りした頃の写真(右)。

新富芸者

新富花街は芝居を観てから一杯やる客でたいそう繁盛します.。芝居小屋の街ゆえに目の肥えた口のうるさい客が多く、おのずと新富芸者の踊り、振舞い所作は優れたものだったと云います。

羽織は粋な利休色の江戸小紋。足もとからカエデがのぞき、さり気なく季節を詠います。

関東大震災で崩壊、廃座となってしまった新富座ですが、幼い頃の清方に思い出とその後の芝居を題材にした多くの絵に基礎知識を与え、美人の立ち居振る舞いを植え付けます。

鏑木清方が二十八歳から住んだ町・日本橋浜町。「浜町河岸」へとつづく。

浜町

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