近代日本画壇の美人画の巨匠のひとり、鏑木清方(本名・条野健一 1878ー1972)は神田佐久間町生まれのチャキチャキの東京っ子。そんな清方が、なぜ、日本画にしては異国情緒を感じさせる「築地明石町」を描いたのでしょうか?

見返り美人の構図をとりながらも伝統的な日本髪の結い方ではなく、当時流行していた夜会巻(イギリス巻)と呼ばれた髪型の気品あるご婦人。描かれた当初、ラシャメン(外国人相手の遊女)では?と憶測が飛びますが、清方本人が明石町で実際に見た上流階級の貴婦人だと断言しています。

ジャーナリストの父
清方の父・条野伝平は、幕末、その文才を認められ、老中・阿部正弘に可愛がられたほどの逸材。ご維新後は一流のジャーナリストとして東京日日新聞(毎日新聞の前身)の創設メンバーに名を連ね、自らも「やまと新聞」を興します。
明治の初めの銀座は多くの出版社、新聞社が集中していた街。銀座の中心、尾張町(銀座四丁目)角も新聞社。



父の伝平にとっては銀座の近くに住むことは必須条件。築地、木挽町(現・東銀座)と住居を移します。
築地外国人居留地
幕末から外国人居留地であった築地の新湊町、明石町はまるで日本の中にあった異国。

父譲りの文才で清方も随筆を能くし明石町を語っています。
「明治の東京で、他にはちょっと類のない新鮮な異国情緒がふんだんに味はえる明石町の外国人居留地が住居の間近かに有つてゐたのは、私にとって何んといふ仕合せだったらうと、後々までいい思ひ出となって残る」
鏑木清方「自作自解」より


幼い頃を京橋区木挽町一丁目十一番地で過ごした清方は居留地通りを東にゆき、川辺の明石町に遊びます。

「外国人居留地で佃の入江に面して、青草の茂る堤の外には、海波ただちに、安房、上総の岸に通ふ。涼しい潮風の吹くところ、紅毛碧眼の子女がいつも快活に遊んでゐた」
鏑木清方「東京築地川」明石町詞書より


清方十三歳のとき、やまと新聞に挿絵を描いていた水野年方に弟子入りし、挿絵画家としてその画業をスタートします。



それだけで売り上げを左右してしまう雑誌口絵でも成功を収め、名声を高めていきますが……。

関東大震災
清方にとって、東京市民全員にとって転機となった関東大震災。

震災により多くの明治の文物は失われ、昭和二年(1927年)古き良き明治を、そして幼い頃に遊んだ街を懐かしむように、逝きし明治のおもかげ「築地明石町」を描きあげます。
朝寒の中に立つ見返り美人の左上には佃島沖の朝霧に霞む帆船。

明治の明石町には米国大使館、その後、その跡地にホテル・メトルポールが出来て海側には海岸通り。いまでは海岸通りに代わり大きな堤防が明石町を護ります。


堤防に上るとそこは隅田川テラス。佃島月島の方には帆影の代わりに月島の高層ビル群が誇らしく建ち並びます。
見返り美人の右下には水色のペンキが塗られた柵と朝顔。

明石町の洋館群は震災により残っていませんが、空襲を免れたため、昭和初期の建物は残ります。
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米国大使館、ホテル・メトルポールの跡地には現在の明石町のシンボル、聖路加ガーデンタワーが空高くそびえます。

見返り美人の足元には、しぼんだ朝顔が落ち「逝きし明治」を象徴するかのようです。
清方にとってやはり思い出深い「新富町」へとつづく。