明治維新が成されても、すぐに世の中の制度は変わらず江戸の刑罰・刑事システムは存続します。
江戸のシステム
江戸時代、容疑者がお縄になると江戸市中に990ヶ所設けられた自身番にしょっぴかれます。

ここで容疑が固まらないときは市中に9ヶ所あった大番屋へ送られます。大番屋は伝馬町の本牢に送るか否かの予審を行う仮牢で、時には拷問も……。

明治になっても……
幕末から明治にかけて活躍した最後の浮世絵師のひとり・河鍋狂斎(1831〜1889)は大の酒好きの遊興三昧。とにかく絵が上手くて酒を片手に狂画を描き人々を驚かせるのが大好き。
明治三年(1870年)十月六日、上野不忍池、弁天様境内の料亭・長駝亭で開かれた書画会で描いた風刺画が新政府から目をつけられて逮捕。大番屋に投獄されます。

新たな時代になったからといっても大番屋は人権無視のすし詰め状態。不衛生極まり無い様子を狂斎は画集に残しています。


狂斎は獄中で重い皮膚病にかかり仮釈放されますが、翌年の再入獄後に五十笞打ちの刑がくだり、伝馬町牢屋敷門前で刑が執行されます。河鍋狂斎はこれに懲りて名を河鍋暁斎と改めます。

明治の改革
ご維新後、東京府囚獄の長は元岡山藩士の尊王派で幕末に入獄した経験もある小原重哉(1834〜1902)。江戸時代の監獄の悲惨さを知る彼は新政府の求めに応じて改革に乗り出します。
明治四年(1871年)、イギリスの植民地であった香港、シンガポールの監獄を視察。小原がそこで目にしたものは行き届いた換気と下水施設完備の監獄。そして驚いたことに囚人たちが整然と労働に従事しています。進んだ欧米では刑罰により苦痛を与えるよりも囚人の社会復帰に力を入れていることに強烈な感銘を受けます。帰国した小原はさっそく「監獄則・監獄則図式」を著し、その中で……
「獄は人を仁愛する所以にして残虐するものに非らず」「人を懲役する所以にして人を痛苦するものに非らず」
と明治新政府に訴えます。

明治七年(1974年)鍛冶橋の警視庁、司法省近くに監獄署が設けられ、刑罰、裁判に於いても新時代の幕が開きます。

日本初の監獄は現・東京駅の敷地となり今では跡形もなく、歴史を語るものは何一つありません。

一方、伝馬町牢獄の跡地は政府から売りに出されるも、その地の謂われゆえに買い手が無く、憲兵の分屯地となります。

明治八年(1875年)大倉財閥、ホテル・オークラの大倉喜八郎、安田財閥の安田善次郎が共同で土地の一部を購入し祖師堂を建立。今日の大安楽寺の礎となります。

幕末の橋下佐内、吉田松陰をはじめここで処刑された名もなき囚人たち全ての霊を慰めています。
伝馬町牢屋敷
(1)刑より怖い火事編
(2)げに恐ろしき江戸の拷問・刑罰
(3)切腹から世直し大明神へ
(4)獄中の吉田松陰