今や東京の一大繁華街・新宿も江戸のはずれにできた新しい宿場町。それまで甲州街道の最初の宿場は高井戸で、日本橋から四里八丁(16.6キロ)もあり、浅草の商人・高松喜兵衛らが発起人となって起こした町です。
旅人の不便を緩和するためだけでなく、宿場を岡場所(幕府非公認の私娼街)にして江戸からの集客を目当てに、一儲けしようという魂胆。大名・内藤家の敷地に出来た四谷内藤新宿はたいそう繁盛します。
風紀の乱れから一旦は幕府により廃止されますが、明和九年(1772年)宿場は制限付(旅籠屋一軒につき飯盛女は二人まで)で再開されます。
内藤新宿の中心・太宗寺



太宗寺は古くから甲州街道沿いにある高遠藩内藤家の菩提寺で、内藤新宿の宿場はここを中心に拡がっていきます。
境内には幼少の夏目漱石が登って遊んだ江戸六地蔵や塩かけ地蔵、三日月不動堂、そして閻魔堂があります。




内藤新宿には私娼の飯盛女・茶屋女として働く女性が多く、こんな物語が伝わります。
つけ紐閻魔
ある母から赤子を預かった乳母は、その子を背負い、太宗寺の境内へ。赤子はダダをこねて泣き止まずに、世話をしていた乳母は「そんなに泣くと閻魔様に食べられてしまいますよっ!」と言うと、不思議と赤子はおとなしくなります。乳母は心地良い陽気に誘われて境内でウトウトと寝てしまいまい、目を覚ますと、さぁたいへん、赤子がいません。乳母は必死になって、本堂、三日月堂、塩かけ地蔵、六地蔵と境内のあちこちを探してもいません。
最後に閻魔様にお願いしようと閻魔堂に行くと、閻魔様の口元から赤子が着ていたチャンチャンコのつけ紐が閻魔様の口から垂れているではありませんか……。
乳母は責任を感じて井戸に身を投げたとか。
記録にある本当にあった閻魔様の不思議な物語も……。
盗人を捕まえた閻魔様
太宗寺の閻魔様の眼は暗闇でも光り、純金で出来ているのだとウワサが立ちます(実際は水晶製)。 弘化四年(1847年)三月六日、盗賊が閻魔堂に忍び込み、閻魔様の眼玉を繰り抜くと、たちまちの眼光、光明が発し、盗賊は気絶して倒れてしまいます。仏罰てきめん、すぐにお縄となります。

この事件は江戸中の大評判となり、歌川国輝が描いた錦絵は飛ぶように売れ、それからというもの、内藤新宿の人気はうなぎのぼり。さらに……。
正受院の奪衣婆
太宗寺の裏手にある正受院の三途の川の奪衣婆は文政年間(1818〜29年)に安置され、はじめのうちは咳の治癒に霊験新たかとされていましたが、幕末になると、祈ると何でも叶う、諸病、金銭の願掛け、賭け事、商売繁盛にもと、内藤新宿の旦那衆が言いふらすと参拝者が列をなし、線香の煙が火事と見間違えるほどとなり、寺社奉行はついに奪衣婆を邪宗として禁止します。

風評・口コミは恐ろしいもので、閻魔様の錦絵も内藤新宿の旦那衆と瓦版屋がグルになって、事実を誇張して宣伝したもの(泥酔の犯人が卒倒して見た夢)。
つけ紐閻魔の伝説も内藤新宿の旦那衆の作り話。
明治になって、信教の自由が保障され、正受院人気に便乗した太宗寺にも奪衣婆が安置されます。

奪衣婆とは、三途の川で六文銭が無いと亡者から衣類を剥ぎ取る老婆のこと。太宗寺のそれはあまりにリアル。
私娼の多かった新宿では、お客をストリップにすることから、奪衣婆は信仰を集め、明治・大正となっても太宗寺はますます活気づきます。

数々の伝説を持つ閻魔様は関東大震災で大破。首から下は新しいものですが、首から上は文化十一年(1814年)頃の製作。
閻魔堂は毎年、お盆のシーズンのみ開扉され、その時期に太宗寺所蔵の数々の地獄絵も公開されてます。