伝馬町牢屋敷は単に留置所、拘置所というわけではなく、取調べ、自供を得るために拷問、奉行所で刑が確定すれば執行をする恐ろしいところ。今とは違い、自供を最大の証拠にしていた江戸時代。それはそれはヒドイ拷問が行われたようで、やっていなくても虚偽の自白をしてしまうほど。

牢屋敷の拷問
拷問が行われたのは牢屋敷内の穿鑿(せんさく)所と拷問蔵。

第一段階
穿鑿所で鞭打ち


10数回で自白に追いやり、50回を超えると気絶したと云います。気絶しても薬を飲ませ蘇生させて次へ……。
第二段階
穿鑿所で石抱き責め
たいていは鞭打ちで白状しますが、白状しない時は石抱き。三角の松材(算盤板)に正座させ、両ひざに1枚50キロの伊豆石を重ねていきます。「サァどうだ」と石を揺り動かすとは、まさに鬼畜のなせる技。ここで骨折はしごく当然。
第三段階
拷問蔵で海老責め

第三段階からは拷問蔵に場所を移して。
いくら体がやらかい人でもこれはキツイ。両足が頣につくまで海老のように折り曲げて放置。だんだんと冷や汗が出てきて全身真っ赤から蒼白になり、もう死の直前。
最終段階
拷問蔵で釣責め
海老責でも自白しない時、両腕を背に回して縄で縛り地面から約11センチ離し宙吊り。
弁護士もおらず、最初から犯行を決めつけた捜査姿勢にはア然。
奉行所に連行

拷問で自供させられ、小伝馬町の牢屋敷から日本橋本石町、十軒店、金吹町、本町一丁目を経て常盤橋を渡り、呉服橋御門内の北町奉行・数寄屋橋御門内の南町奉行へと連行されます(拷問により歩けなくなった者は籠にのせられ)。道筋を見るとかなりの繁華街を通っているので、これも見せしめの一種。
奉行所でお奉行様登場
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お白州で裁きが下り刑が確定します。
刑の執行
敲きの刑
犯罪の王様といわれる「盗み」に対しては敲きの刑。
「敲き」は犯罪の程度により五十敲き・百敲きがあり、執行される場所は伝馬町牢屋敷の表門外、堀に掛かる石橋の上。


「叩き」ではなく「敲き」と書くのには意味があり、「敲き」には相手の様子を見て打つという意味があります。
また背骨を打つのはご法度。翌日からでも仕事が出来るようにと配慮。
表門外という公衆の場には大勢の見物人が集まり犯罪者には羞恥を与え、見せしめにすることで一般町人に対しての犯罪の抑止力とします。
あらかじめツル(ワイロ)を届けておけば数を数えるとき「ひ〜ふ〜みぃよ〜いつむ〜七、十」などと数えてくれて「地獄の沙汰も金次第」。
刺青
窃盗額が多いと敲きの後に刺青が付加されます。
刺青の場は穿鑿所の南側の庭。

死罪
窃盗額が10両(80~120万円)を超えると、これはもう重犯罪で死罪、斬首仕置になってしまいます(殺人、姦通罪も死罪)。

死罪場は現・大安楽寺の場所。
斬首後に土壇場に乗せられ、刀の試し切りになることも……。
「最後の土壇場」とは、よく使う表現ですが土壇場は試し切りのために盛った土のことなので、斬首後、既に絶命ののちです。

大安楽寺内の様場(ためしば)跡には延命地蔵が建ちますが、大安楽寺の中山弘之住職の話によると、基礎工事の際、掘るとそこだけ土の色が違っていたとか。
斬首仕置には付加刑として江戸市中引廻し、獄門が付くことがあります。
獄門は刑場で首を晒されます。
刑場は江戸への南北の入口、小塚原と鈴ヶ森。


小塚原と鈴ヶ森の両刑場では、放火犯に対しては同等報復の火刑、極悪犯罪に対しては磔の刑。

主人・親・師匠殺し、似せ金作り、関所破りには、もっとも重い鋸引の刑。日本橋の南詰(現・日本橋交番前)に三日間晒されたのち市中引廻し、その後、磔刑。


戦国時代に始まった通行人に裁定を任せる刑ですが、江戸時代には形式化されます。ところが、元禄の頃、鋸を引く者が現れ、奉行は慌てて見張りを付けたとか。
このような刑罰は一般の百姓や町人、無宿人に対して行われ、武士や僧侶は別。
切腹から世直し大明神へとつづく