家康公の江戸入府後、常盤橋御門外(今の日本銀行の北側)に設置された牢屋敷は、二代・秀忠公治世の慶長十八年(1613年)日本橋の北、小伝馬町に移されます。


小伝馬町の牢獄跡は中央区の十思スクエア、十思公園、大安楽寺を含む広大なエリア。




これを現在の地図に重ねると以下のようなもの。


十思スクエアの発掘調査からみると、上水設備が整備されたことで小伝馬町へと移転。

2618坪の広い敷地に常時200〜400人の囚人。その飲料水の確保はもちろんのこと、感染症を防ぐため月4回、夏は月6回の入浴をさせる決まりがあり、外部から水を持込まない、外部との接触遮断のためには上水は絶対必要条件。
また、これだけ大勢の囚人を管理するのは牢屋奉行・石出帯刀を筆頭に50人ほどの同心与力、非人身分の下男が40人ほど。この人数ではとうてい管理がゆき届くはずもなく、幕府は囚人の中から牢名主を指名して自治権を与えます。

新入所の囚人は身体検査され、その際、隠していた「ツル」と呼ばれるワイロを渡します。まさに地獄に垂らされた一本のツルにすがりつく新人。地獄の沙汰も金次第、牢名主側と奉行側のツル金の分配割合も決まっていたとは驚きのシステム。
ツルが無いとリンチにあうこと必至……。

リンチよりも怖いのは江戸の華・火事だったようでして……。
明暦の大火
時は明暦三年(1657年)一月十八日、本郷・本妙寺が出火元とされる火事はたちまち湯島天神、神田明神、駿河台の大名屋敷を次々に焼き払い伝馬町に迫ります。

時の牢屋奉行・石出帯刀吉深は難渋します。
「このままでは囚人たちは焼け死んでしまう。罪ある者とて人間、焼け死ぬのを観ているのは不憫でならない……」
石出は幕府に相談する時間もなく、切腹を覚悟の上で牢の門を開け放ち、罪人たちに告げます。
「大火が迫った故に切放つ(解き放つ)が、火がおさまり次第、下谷のれんげ寺に戻ってくるように」
囚人たちは涙を流して石出に感謝し四方に逃げてゆきます。

数日して火が収まり、石出と配下の与力たちが下谷れんげ寺(「むさしあぶみ」の記述違い、善慶寺のことか?)で待っていると一人二人と囚人がやって来ます。囚人のほとんどが戻り、石出らと囚人らはともに涙します。地方に逃げ帰った者もいましたが、村で説得され自首。
石出に情け有り、囚人に義有り、そして時の災害担当老中・知恵伊豆こと松平信綱に仁有りで、石出の申し出に応え、戻ってきた囚人に減一等を与え、死罪が確定していた者も島流しに。

明暦の大火以後、切り放し(一時釈放)は慣習化されます。
牢屋敷は計16回もの火災に襲われていますが、中でも有名なのは高野長英の火付け……。
火事に乗じて脱獄
天保十年(1839年)蛮社の獄が勃発。長英は自著「夢物語」で幕政批判をしたかどで指名手配。自首したため死罪は免れ、永牢(終身刑)の身となり伝馬町牢屋敷に収監。牢内では蘭学の才知を生かし服役者の医療に努めたため、牢名主に任命されます。
弘化元年(1844年)六月三十日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄(諸説あり、長英が牢で働いていた下男をそそのかして放火した説が有力)。以後、顔を硝酸で焼き人相を変え各地を転々。江戸に帰り青山百人町の小島勘次郎の借家に、町医者「沢三伯」を名乗り身を隠しますが……。

嘉永三年(1850年)十月三十日、逃亡すること六年余、密告により万事休す。捕物中に十手で何度も叩かれ半死状態。伝馬町へと駕籠で護送中に息を引き取ります。

青山通りの青山スパイラルビルに「高野長英先生隠れ家」の碑があります。今となってはここで捕物劇があったことなど誰も知らずに通り過ぎてゆくばかりの都会の雑踏。

伝馬町牢屋敷は元治元年(1864年)の大火で焼失するまで二百四十年の長きにわたり江戸の処刑場・留置所の機能を果たします。

ご維新後の明治八年(1875年)市ヶ谷監獄が出来て全て機能は移行されます。

伝馬町牢屋敷(2)げに恐ろしき江戸の拷問・刑罰へとつづく。