いだてん・金栗四三「パリに沈む日」

いだてん・金栗四三「パリに沈む日」

大正十三年、関東大震災の翌年、帝都・東京のあちこちで復興の槌音が聞こえてきます。

新東京の復興
東京朝日新聞より。

大正十三年(1924年)四月二十七日、金栗四三らオリンピック選手団は神戸港から「香取丸」に乗りアメリカを経由してパリを目指します。

大正十三年(1924年)四月二十九日付東京朝日新聞よりオリンピック選手団の出発
大正十三年(1924年)四月二十九日付東京朝日新聞よりオリンピック選手団の出発。

震災からの復興を海外に示そうと、お国の力の入れようはたいへんなもの。日章旗は秩父宮殿下から下賜され、まさにお国の代表と讃えられ応援されます。

大正十三年(1924年)四月二十六日付東京朝日新聞より。
大正十三年(1924年)四月二十六日付東京朝日新聞より。

ストックホルム大会アントワープ大会と補助金を拒んできた文部省とてお国の復興を示す機会にあたり、六万円(現在の七千万円)を支出。

甲板上の練習

豪華客船「香取丸」は甲板にプールを完備して水泳選手が練習。投てき選手のために、円盤・ヤリに50メートルのロープをくくり付けて用意、海に向かって投げます。甲板にはマットレスを敷き詰めてランニング。ストックホルムにシベリア鉄道で行ったことを思うと隔世の感があります。

パリ到着

六月七日、パリに着き、パリ大会から本格的に始動した選手村に入ります。

パリ選手村

とはいえ、ご覧の通りバラック同然。食事施設もままならず、フランス在留邦人が付添いで日本食を用意します。
水泳選手は練習プール近くのホテルに滞在。食事のときだけ、選手村にやってきます。

神経質で一人にならないと眠れないというロンドン・イギリス大使館勤務の中距離選手・岡崎勝男は洋食にも慣れているので、ひとりホテルに部屋をとります。

エッフェル塔に登る日本選手団
エッフェル塔に登る日本選手団。

アメリカ、ヨーロッパから合流した選手を含め代表選手、役員併せて二十八名、その他のサポートメンバー、ドクター、トレーナー、マッサージャーまでいる日本選手団はいままでに無い大所帯。パリで歓待を受けます。

パリの日本大使館にて在留邦人と記念撮影。
パリの日本大使館にて在留邦人と記念撮影。

ゴリラ三浦と再会

三浦弥平ベルリン体育大学留学中のゴリラ三浦こと、三浦弥平と四年ぶりの再会。三浦は箱根駅伝で早稲田大学の五区を走って以来の金栗門下生。アントワープではともにマラソンを走っています。

金栗先生、困った時に何度も送金して頂いてありがとうございます。おかげでがんばり通すことができました。練習も人一倍やりましたよ
と笑顔の三浦のスーツはボロボロで苦労のほどがうかがえます。
よかった、よくやったなあ、ゴリラ。また君と走れるなんて夢にも思わなかったよ

面倒見の良い金栗は誰からも慕われています。

開会式

七月五日、パリ・コロンブ競技場にて第8回オリンピック・パリ大会が開幕。金栗にとっては三度目のオリンピック。今回は秩父宮殿下から下賜された日の丸を誇らしげに掲げ、騎手として先頭をゆきます。

パリ・コロンブ競技場
パリ・コロンブ競技場。

日本選手団

岸清一
岸清一。

思えば、大日本体育協会は嘉納治五郎会長から二代目の岸清一会長に変わり、東京高師の後輩・野口源三郎、箱根駅伝・明治大学五区の沢田栄一は体育協会役員となって同行しています。後輩、門下生が次々と引退してゆくなか、金栗はすでに数えで三十四歳。中止になったベルリン大会を挟みオリンピック三大会出場、十四年もの間、第一線で活躍するレジェンド・金栗の晴れ姿です。

騎手の金栗。

陸と水で躍進

競技が始まると日本選手の活躍が続きます。

大正十三年(1924年)七月十五日付東京朝日新聞より
大正十三年(1924年)七月十五日付東京朝日新聞より

アントワープでは、クロールを知らず惨敗した日本選手でしたが、海に囲まれた日本の底力を見せ、百と千五百自由形で高石勝男が五位、百背泳で斎藤巍洋が六位、四×二百自由形リレーで四位入賞とあと一歩のところ。クロールなど最新の泳法をマスターし水泳大国日本の礎を築きます。

大正十三年(1924年)七月十四日付東京朝日新聞より
大正十三年(1924年)七月十四日付東京朝日新聞より。
内藤克俊
内藤克俊。

陸上では、これ以降、日本のお家芸となる三段跳びで織田幹雄が日本陸上界初となる六位入賞。
これもまた日本のお家芸となるレスリング。フリースタイル・フェザー級の内藤克俊は日本に銅メダルをもたらします。

が、悪いニュースもあります。

ひとりホテルに滞在する神経質な岡崎勝男は五千メートル予選を突破、決勝での活躍を期待されますが、一人暮らしの弊害、なんと、ホテルのボーイが新聞紙に包んであったスパイクをゴミだと思って捨ててしまうアクシデントが発生!履きなれないスパイクで決勝に臨み途中棄権と散ります。

同じ中距離界の第一人者・中央大学の田代菊之助にもアクシデント。練習中に大腿部を毒虫に刺され手術、術後の経過が思わしくなく最後のマラソンへとエントリーシフト。ゴリラ三浦も練習中に足首を痛めてしまいます。

マラソン三選手の苦悩

マラソンはオリンピックの華。どの大会でも最終日近くに行なわれます。選手村では競技を終えた選手たちがリラックスして騒ぎ、各国のマラソン選手は集中をキープするのがたいへんです。

大ベテランの金栗とて寝不足に悩まされています。ましてや、四年に一度の大会にピークをもっていくのは、世界記録を出すことよりも難しいということ、三十過ぎて勝てるほど世界は甘くないということ。それらのことを金栗は重々承知しています。

それぞれに問題を抱える金栗、田代、三浦の三選手は賭けに出ます。今までの日本の戦法は力を温存して追い上げてゆくものでしたが、最初から飛ばして逃げ切る作戦に変更します。

マラソンスタート

七月十三日、この日は気温三十度を越え、石造りのパリ市街には熱気がたちこめています。
協議の結果、スタート時間を夕方五時に変更、参加五十八選手のマラソンがスタートします。

スタートダッシュ。競技場を田代が先頭で飛び出していきます。
4.1キロ地点では田代三位、金栗九位、足首故障の三浦は五十六位と出遅れますが、田代、金栗は良いスタートを切ります。
が、しかし……

パリ大会の金栗四三
金栗足袋で走る金栗。

11,6キロ地点
田代十七位、金栗三十位、三浦五十四位。
21,4キロ地点
田代気絶、金栗三十四位、三浦五十二位。
23,4キロ地点
金栗気絶、三浦四十八位。
31.1キロ地点
最後まで残った三浦も敢えなく気絶

ストックホルム、アントワープを連覇したフィンランドの英雄・コーレマイネンでさえ34キロ地点で気絶する暑いあつい過酷なレースでした。

パリの夕日とともに金栗の夢も沈み、彼は引退を決意します。
が、マラソンの全国普及に努めてきた青春は無駄ではなかったと誇りに思っています。ただ、ひとつだけ心残りはハリマヤの金栗足袋で世界に勝てなかったこと……。

帝都の復興

帰国するとまるで浦島太郎。帝都・東京の復興は不死鳥のよう、目覚ましいものがあります。

銀座復興
銀座の復興。
ドームを再建したニコライ堂。
ドームを再建したニコライ堂。
九段下の復興。
九段下の復興。

大塚のハリマヤに報告に伺うとアントワープ大会後同様、辛作さんは金栗の失敗にはせず、足袋のせいだと言い張り、足袋の改良を考えます。

金栗が引退しても辛作の挑戦は続き、息子・勝蔵が夢に向かって挑戦を受け継いでゆきます。

「金栗足袋からカナグリ・シューズへ」へとつづく

カナグリシューズ

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