こんもりとした塚でもないのに将門公の首塚。古墳だったと云われる塚はどこ?域内にある大きな石は何?古墳の石室の部材?そもそも平将門の祟りは本当にあったのか?全ての謎は大正時代のあの災害に端を発しています。
「将門公の首塚の祟り」始まりから明治新政府vs江戸っ子を参照
明治大正期の将門塚
武蔵国豊島郡柴崎村の岬にあった古代の豪族の王墓・柴崎古墳は、中世、平将門の墓に見立てられ、埋立ての進んだ江戸時代には大名屋敷の庭園の築山として利用され大切にされます。明治になるとそのまま、大手町の官庁街・大蔵省内の中庭となります。


「平将門故蹟考」
歴史学者・織田完之は、明治新政府により朝敵とされてしまった平将門公の復権に尽力、「平将門故蹟考」を著し明治天皇に献上しています。
この本のなかで大蔵省中庭の将門塚を調査。挿絵と庭園の池と古墳の平面図を残しています。

そして、この史跡をいつまでも忘れないようにと、塚の頂上に古墳保存碑(古蹟保存碑)を建てています。
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江戸時代の大名家がそうだったように神田明神の祭礼になると、大蔵省も中庭にお神輿を招き入れ将門公の霊を慰めています。あの日が来るまでは……。
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関東大震災
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震災により大蔵省は崩壊炎上、木々は焼け、古墳がもとの形を顕します。考古学者・鳥居龍蔵は震災により丸裸となった将門塚を撮影しています。

織田完之の調査では木々が鬱蒼と茂った円墳とされていましたが、どうやらこれは前方後円墳。
奥に見えるのは皇居。南東に前方部を向け北西に後円部がある前方後円墳。そして織田完之が描いたように南側に礎石、その上に灯篭があり、円墳部頂上に古蹟保存碑があります。

震災の途方も無い被害。二ヶ月半後、残念ながらここを更地にして大蔵省仮庁舎を建てることとなり、古墳の調査、工事が開始。この日のことが考古学者・鳥居龍蔵の監修する雑誌「武蔵野」に書かれています。
不思議な古墳
大正十二年(1923年)十一月二十九日、川村眞一氏は考古学者・小此木忠七郎とともに工事に立ち会っています。塚を崩していると、おかしなことに、陶器片や焼けた瓦が出てきます。さらに石室まで掘り進むと石材は小松石(江戸城の石垣と同じもの)が理路整然と積み重ねられていて一同ビックリ。

考古学者の小此木忠七郎は、とうてい古墳時代のものとは言えないが、盗掘の跡、整備の跡が見られる。焼けた瓦の一部には寛政期のものが確認できたと語っています。

川村氏は浅草・浅茅ヶ原の梅若塚の例をあげています。古墳・梅若塚の石室からは中世の板碑が出てきており、幾年月を経て埋葬者が変わり、信仰の対象となる古墳の変容を指摘しています。
柴崎古墳は盗掘に遇い、津波や台風で荒れ、平将門公を祀った真教上人が整備。信仰の対象となり、その後も修復を繰り返し、江戸の大火の瓦礫を積み重ねていったと考えれば合点がいきます。
川村氏は今後も調査が必要と言っていますが、翌日にはすっかり更地となって仮社屋の工事が始まっています。当時は文化財保護法もなく、震災の悲劇の直後という状況、致し方のないこと。
大蔵省仮社屋時代の将門塚
雑誌「武蔵野」には仮社屋時代の図も載っています。将門塚のあった位置にはバラックが建ち中庭にかろうじて遺物が残っているようです。


設計・工事を担当した工学博士・大熊喜邦の談話も載っていて「もと神田明神の御手洗池と云われた池も埋め立てたが、灯篭と池の石『千鳥岩』と呼ばれた五尺ほどの青石は残してある」と証言しています。
サイズも材質も一致。織田完之の書いた平面図にもあります。なるほど、これは池の石だったのか……。
大正十五年(1926年)九月十四日朝刊、新聞各紙に訃報がおどります……。
将門祟り伝説の始まり
現役の大蔵大臣・早速整爾が入院三ヶ月後に死亡。彼は丁稚奉公から身を立てた立身出世中の人物で国民にも人気があり各社とも大きく報道しています。それに続いて営繕局工務部長が急死。二年のうちに大蔵省関係者が十四人も死亡。しかしながら、各紙とも「将門の祟り」などという言葉は使っていません。

では将門公の祟り伝説は何がキッカケだったのでしょうか……?
将門の霊よ、鎮まり給え
怪我人のほうでは、武田政務次官、荒川事務官など、足を怪我したものが続出。誰ともなく、毎日まいにち、将門塚を踏みつけているからではないのか?という噂が拡まります。
さすがの官僚たちも怖気づき、将門塚上のバラックを解体、生垣を設けて灯篭・礎石を復元。神田明神の宮司・平田盛胤氏を招いて鎮魂祭を行っています。

このことを「科学の進歩した現代でも将門公にあやまる官僚たち」と珍しがり、各紙とも報道。
これらの記事が将門公の祟り伝説を生むことになります。いずれにせよ、将門公の怒りはおさまり、しばらくの間、平穏な日々が続きますが、塚を潰してから十七年後の昭和十五年、事件が起こります。
天罰か?落雷
昭和十五年(1940年)六月二十日、落雷により、大蔵省は全焼してしまいます。が、実は、雷が落ちたのは隣の航空局。九つの官庁を焼く類焼でした。

これを機に大蔵省は霞ヶ関合同庁舎に移りますが、ちょうどこの年は将門公没後千年にあたり鎮魂祭を行っています。時の大蔵大臣・河田烈は先達にならい、ここに将門塚があったことを後世に伝えて欲しいと関東大震災後に失われた古蹟保存碑を復元。背面には明治三十九年に織田完之が書いた韻文を復刻しています。

やがて太平洋戦争の戦局が悪化。空襲で都心は焦土と化し敗戦。焼け野原の中、将門塚はポツンと残ります。
大手町一帯は占領軍GHQの管理下に入り、将門塚の地に駐車場を作ることになります。ところがGHQのブルトーザーが将門塚の直前で横転、作業員が事故死してしまいます……といわれていますが、事故のことは「神田明神史考」「史跡将門塚の記」に載っていますが、新聞記事は皆無。事故はあったようですが確かな詳細は不明。少なくともブルトーザーの横転などいうことは無かったようです。
江戸っ子対GHQ
将門塚の地が駐車場になってしまうと聞いた大手町々会長・遠藤政蔵氏は町会の人々とともにGHQに陳情に訪れます。
古墳だの平将門だの言っても文化・歴史が違いすぎ要を得ないので「ここは古代の大酋長の墓だ」と言って、生垣を作り町会で管理することをGHQに納得させます。
寸でのところで将門塚は江戸っ子たちによって守られます。
GHQが去った後、土地は東京都から民間に払い下げられますが、将門塚の地は地元の管理とされます。
昭和三十五年(1960年)史跡将門塚保存会結成。
昭和四十六年(1971年)東京都の文化財(都旧跡)に指定。
昭和五十九年(1984年)朝敵の汚名も晴れて、平将門公は神田明神の三の宮に御祭神として複座されます。
なぜ将門塚は愛されるか?
ビジネス街・大手町の時価数億円と云われるこの土地は江戸っ子たちに愛され続け、なぜ残ったのでしょうか?

ここは古墳時代から文化が芽生えていた海辺の地。ここから埋め立てが始まり今日の東京があると言っても過言ではない大都市・東京のスタート地点。東京の原点がここにあります。