大正十五年(1926年)の年の瀬、大正天皇はご病気に伏され国民は回復を願い日々のご容体の変化に大きな関心を寄せています。

東京では東京朝日新聞、東京日日新聞、読売新聞、報知新聞、都新聞、一橋新聞、三田新聞、萬新報などの新聞社が、たびたび号外を発行して陛下の動静を告げるのに躍起になっています。
有楽町一丁目に東京本社を置く東京日日新聞(毎日新聞の前身)は、特ダネ速報を売りものにしています。
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大正十五年十二月十四日に2本、十五日に2本、十六日に3本、十七日に4本、二十三日に3本、二十四日に5本もの多数の号外を打って他社をリード。
十二月二十五日午前一時二十五分、大正天皇は崩御。一世一元の制に従い宮内省、内閣は新元号案の作成にあたりますが、東京日日新聞の一政治部員が極秘に情報を入手。新元号は「光文」「大治」「弘文」の中から「光文」と決定するであろうと、なんの確証も無く、いわば憶測記事ともいえる内容を天皇崩御の大ニュースとともに号外で伝えます。
号外とともに制作してしていた二十五日の朝刊には、これが決定事項として伝わり元号制定「光文」と決定と掲載。朝刊が発行される頃には枢密院会議も終わっているだろうとの判断のもと、東京市内版は発行されてしまいます。

ところが、二十五日午前十一時、枢密院会議が終わり、新元号が発表されると「昭和」。号外第二号でこれを伝えますが、時すでに遅し。
前代未聞の誤報事件に発展。日頃から皇室に敬意を抱く日日新聞社長・本山彦一は辞意を表明する事態に。責任問題は年を越し、結局のところ、社長は辞意を押し留められ、城戸元亮主幹が全ての職を辞すことで決着します。
事件の真相
毎日新聞社刊「毎日新聞百年史」では新元号「光文」がリークしたため「昭和」に差し換えたのであろう、としていますが、国家の一大事を一部署だけで決めるはずもなく、当初、宮内省案と内閣案が存在しています。


「光文」は内閣案にあったようですが選択肢から消え、宮内省案の中から「昭和」が選ばれています。枢密院会議という国家中枢のことで一般人の及ばぬところ。未だに真相は闇の中。
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もっとも数時間待てば真実を発表してくれるので、それを特ダネ扱いすることは無いのでは?と思ってしまいます。
「平成」改元のときも発表の35分前にリーク。辞職者を出してしまったこの「光文」誤報事件の教訓があったためか、各新聞社は動きませんでした。 もちろん「令和」発表のときも、何事もなく清々しく新たな元号を迎えることができます。