「きっとドイツは蘇る、このご婦人たちの明るさがある限り……」
オリンピック・アントワープ大会後、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツを視察した金栗四三は、スポーツに興じるドイツ女性の明るさ・たくましさに触れ、国力を支えるのは女性とスポーツだとの考えに至り、女子のスポーツ振興に目覚めます。
もう一人、ドイツに魅せられた男がいます。
ゴリラ三浦弥平
この人物、破天荒を絵に書いたような人生を歩んだ男。箱根駅伝では早稲田の五区を走り、オリンピック予選会では金栗に次いで二位に入り代表の座を射止めます。ずんぐりむっくり、そのマラソン選手らしからぬ風貌から「ゴリラ」とアダ名され、またその言動も人間離れし「死ぬまで駆ける必死隊」などと新聞ネタにされるほど。
海外視察中のある日、彼は金栗らと別行動。ホテルに戻ってくるなり、
「金栗先生、やっと決まりました」
「なにが?」
「下宿先です」
「はっ?はぁ?」
よほど気に入ったようで、そのままベルリンに残り留学。金銭に困ると手紙をよこし、金栗が工面してやります。苦学力行の道を選び、マラソンの練習を続け、四年後のオリンピック・パリ大会の代表に選出されます。さらに言うと、戦後、衆院選に無所属で立候補、落選するというオマケつきの波瀾万丈ぶり。
金栗ら日本選手団はゴリラ三浦と別れて帰路につきます。
東京女子師範学校の金栗パパ
東京に戻った金栗は、嘉納治五郎先生の紹介を得て、大正十年(1921年)一月、小石川区竹早町の東京女子師範学校(府立東京第二女学校)に地理の教師として奉職。竹早町は母校・東京高等師範学校に近い立地。ハリマヤからは二キロも離れておらず金栗足袋の改良を重ねます。
住まいはというと、竹早町から六キロ離れた滝野川、この間を走って通勤トレーニング。いよいよ女子のスポーツ振興に取り組みます。
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東京女子師範学校(現・東京都立竹早小・中・高校)の高橋清一校長は保守的な日本の女子体育教育界に於いて異例とも云えるほどの先進的な考えの持ち主。女子にスポーツを奨励しています。
高橋校長からは手に負えないほどのジャジャ馬クラスを任せられます。
「ジャジャ馬ならしですね」
「その通り」
最初は黒板消し落としなどのイタズラをされますが、この時代に海外渡航の経験があるのは政府高官かごくわずかなお金持ちだけ。金栗は二度のオリンピックを通じて海外を見てきており、その真実味あふれる地理の講義にジャジャ馬娘たちは徐々に引き込まれていきます。加えて、
「勉強して、まだ、体力が有り余っているなら校庭に出て走りなさい。バスケでもバレーでもテニスでも良い。運動しなさい」
女学生といっしょになってコートを走りまわり球を追いかけ、スポーツを教えます。
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それまでは休み時間に校庭を散策散歩ぐらいしかしなかった女学生でも、休み時間、放課後になると金栗先生推奨の金栗足袋を履き、活発にスポーツに興じるようになります。
大正ロマン華やかりし頃、夢二美人に代表される色白、手折れそうに細く、面長・柳腰の女性が理想とされますが、スポーツの楽しさを教える金栗にはそんな風潮おかまいなし。「金栗パパ、我らがパパ」と呼ばれ、ジャジャ馬たちの人気者、名物教師となります。
父兄からすると「金栗先生、うちの子が黒くなってお嫁にいけなくなります」などと非難轟々。女子校対抗のテニス大会を企画すると、良妻賢母主義の頭の固い帝都の女学校校長たちからは反対の声が上がります。がしかし、そこはランニングプランナーとして、数々の大会を企画、成功させてきた金栗のほうが一枚も二枚も上手。彼は秘策に打ってでます。
金栗の一手・皇室御臨席
まずは新聞社・時事新報にかけ合い、学習院で体育主任を勤めていた東京高等師範学校の先輩・今井熊太郎を通して皇室の王女様を招待します。
「大会当日、皇室の女王殿下の御臨席を仰ぎたく存じます」
明治三十九年(1906年)十月十二日付の東京朝日新聞をみると、明治の末ごろから皇室ではテニスが盛んだったようで、王女様方も喜んで賛同します。すると、反対していた父兄、各校の校長たちは「こんな名誉なことはない」と手の平を返して金栗を応援します。
第一回女学生庭球大会
時事新報は十月二日、予告広告を出し、出場者を募ります。
かくして、大正十年(1921年)十月三十一日、竹田宮、伏見宮、梨本宮の宮家から王女様をお招きし、東京女子師範学校グランドにて女子テニス大会を盛大に開催。
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皇室御臨席という社会的ステータスを得て、大会は大成功を収めます。父兄たちは「金栗先生、おかげさまでうちの子はよく食べるし、よく寝るし、健康になりました」と感謝する変わり様。
翌年、今度は東京朝日新聞に話を持ちかけます。
大正十一年(1922年)五月二十七日、第一回女子連合競技大会を開催。場所はというと陸軍戸山学校グランド(現・東京都立戸山公園)。

「銃後を守るのは婦人である」と軍部を動かすことにも成功。広いグランドを借り受けます。
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さらに同年十一月十二日、同じく陸軍戸山学校グランドにて第一回女子連合陸上競技大会を開催。
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金栗の尽力により、女子スポーツに対する理解は飛躍的な高まりをみせ、竹早町の東京女子師範学校は数々の大会で優勝。「帝都に竹早あり」と、誰もが知る女子スポーツの推奨校として名を馳せます。
樺太ー東京間走破
女子のスポーツ振興に尽力するかたわら、マラソンの全国普及の使命も忘れてはいません。大正十一年(1922年)八月、下関ー東京間を走った後輩・秋葉裕之とともに、今後は樺太ー東京間に挑戦。途中、崖崩れでトンネルが閉鎖と知ると、猟師しか知らないような断崖絶壁の道を走ったり、秋葉は馬に蹴られるというアクシデントがありますが、20日間で走破する偉業を達成。三十を過ぎても金栗のバイタリティは増すばかりです。
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スポーツ振興の道をひた走りに走り、充実した毎日を送る金栗ですが、大正十二年(1923年)九月一日午前11時58分32秒、帝都の地が大きく揺れます。
関東大震災の発生です。