いだてん・金栗四三「アントワープの微笑み」

いだてん・金栗四三「アントワープの微笑み」

大正九年(1920年)五月十四日、十三名の選手、役員二名の(庭球の二人と嘉納治五郎団長はアメリカで合流)オリンピック日本選手団はコレア丸(Korea丸)に乗り、横浜港を出港。アメリカ大陸を横断、ロンドンを経由して、ベルギーのアントワープを目指します。

大正九年(1920年)五月十五日付東京朝日新聞より横浜港にて。左から金栗、辰野監督、野口、三浦。
大正九年(1920年)五月十五日付東京朝日新聞より、横浜港にて。左から金栗四三、辰野監督、野口源三郎、三浦弥平。

謎の男・池辺四三

海外渡航には、もちろんパスポートが必要。金栗四三のパスポートには「池辺四三 SHIZOU IKEBE」と書いてあります。
えっ!金栗先生!本名は池辺なんですか⁉︎
そうだよ、養子に入ったんだよ
とニコリと笑う金栗。
ごくごく身近な親類しか知らなかったことがパスポートから明るみに出て一同ビックリ。
このあと、さらに驚くことが起こります。

甲板の誓い

大正九年(1920年)五月二十四日付東京朝日新聞より船の長旅、船室の中は悪臭が漂い、いつしか選手たちは食後、甲板の上をジョグ・散歩するのが日課となります。
そんななか、金栗はひとり、胸から一枚の写真をとり出して、日本の方角を眺めてなにやらブツブツと呟いています。暇を持て余した選手がその写真をチラ見すると、どうやら、丸顔が涼しい美人のようです。
その事を辰野保監督に話すと、
あの堅物・金栗とて男よ。恋をしてもよかろう……しかし、あれだけ日本中を走り周っておるのに、よくもまあ、そんな体力・時間があったものよのぉ」と笑うばかり。
春野スヤ納得がいかない者たちは、選手団最年少・16歳の八島健三を焚きつけ、スパイに行かせ探りをいれます。八島がよくよく観察すると写真の裏には裏書きがあるようです。八島が思い切って聞くと、裏書きをそっと見せてくれる金栗。そこには「池部スヤ」と墨書きの文字が……。
妻だよ」と照れくさそうに微笑む金栗。
池部?えっ⁈金栗先生!ご結婚なされてたんですか⁈
養子に入ったこと、結婚したことも公にせずにマラソンの全国普及に努めていた金栗。彼の私生活を知る者はほとんどいません。船上で毎日、故郷に残してきた妻を想い、こんどこそはと勝利を誓うのでした。

旅の財政難

八年前のストックホルム大会の時と同じく文部省は「まだスポーツが国民に浸透していない」と補助金の支出を拒否。大日本体育協会の財源頼りとなってしまい、協会から支給されたのは十三枚の切符と微々たる滞在費。海外視察を含めると、これから五ヶ月もの長旅には、とても足りる額ではありません。監督、金栗は東京朝日新聞の特派員を兼ねるアルバイトをしなければいけないというありさまです。

野口源三郎
野口主将。

大日本体育協会会計役員・深井健夫と日本選手団主将・野口源三郎は四苦八苦。滞在先の日本人会、在留邦人に寄付を募り、どうにか食いつないでゆきます。やがて大日本体育協会の会員である三井、三菱財閥が年会費を前払い、送金があってのギリギリの旅。
スポーツ先進大国アメリカの視察を続けることができます。

ハワイに到着した日本選手団
ハワイに到着した日本選手団一行。

4th of July independence day

1920年のアメリカ独立記念日、ニューヨーク・ブルックリンに日本選手団の姿があります。翌日、記念日の祭事として大運動会が開かれ、日本選手団の短・中距離選手が参加。金栗ら長距離陣は休養日として観戦、応援するつもりでしたが……。

軍国主義に走る日本。1910年に韓国を併合、国際社会に於ける反日感情が高まっています。

多くの日系人も集まり観戦するなか、短・中距離陣はアメリカの前に惨敗、その差を身に染みて感じます。
観戦する日系人からはタメ息がもれ、人種差別・反日感情むき出しのアメリカ人からは罵声が飛び出す始末。この状況に金栗は黙ってはおられなくなり、休養日を返上。「行くぞ!」という金栗大将の号令に反対する長距離陣は一人もおらずに、すぐさま運動着に着替えて急遽一万メートルに参戦することになります。

スタジアムを郊外へと飛び出していく一行。後方にゆっくりとつける日本選手たちに、またもや、タメ息がもれますが、あにはからんや、先頭で金栗が帰ってくると日系人のヤンヤの歓声に包まれます。続いて箱根駅伝で活躍した茂木善作、大浦留市、中学生の八島健三、早稲田の三浦弥平、五千・一万メートルの佐野幸之助が一団となってゴール、拍手が鳴り止みません。やっと七番目にアメリカの選手が入ってきます。

大正九年(1920年)五月二十七日付東京朝日新聞より

日系人、在留邦人はどれだけの苦労をしてきたのでしょうか。「君が代」の大合唱がいつまでもつづきます。このようにして、募金・観戦に来てくれた人々の前で大和魂を示し、男を上げた金栗と長距離陣でした。

ロンドンでの再会

三島弥彦
三島弥彦。

翌七月六日、もう一つのスポーツ大国、イギリスへと出航します。
ロンドンでは八年前、ストックホルムでともに戦った三島弥彦が横浜正金銀行ロンドン支店に勤めています。
再会を共に喜び、思い出話に花を咲かせ旧交を温める一日を過ごします。

横浜正金銀行
横浜正金銀行。

イギリス各地を視察見学。七月二十三日、選手団よりも一足早く、嘉納治五郎団長とともにアントワープ入りして選手団のために準備します。

アントワープ入り

当時のアントワープ
当時のアントワープ。

選手村では欧米人と食生活が合わないだろうと日本領事館が配慮(反日感情も配慮)。夏休みに入り空家となっている近くの小学校を借り受け、現地で日本料理店を営む店長に世話をお願いします。オランダから駆けつけた小川昇三等書記官が米、味噌、漬物はもちろんのこと、ラッキョウまで用意。ロンドンやパリ、ベルリンからも百人を超える日系人ボランティアがやってきて協力。ストックホルム大会では白夜を経験している金栗はすぐさまカーテンに変え黒幕を張り、ベットから落ちて風邪を引くのではと、マットレスを床に敷き、布団のようにします。

大正九年(1920年)七月二十九日付東京朝日新聞より
大正九年(1920年)七月二十九日付東京朝日新聞より。

八月三日の夜、選手団が着く頃には準備万端。全てに於いて八年前とは大違い。黎明の鐘を鳴らし先駆者となった金栗の経験が活かされています。嘉納治五郎先生もご満悦の金栗の活躍です。

開会式

アントワープオリンピックポスター八月十四日、第7回オリンピック・アントワープ大会が開幕します。
選手は日本橋三越で新調したお揃いの白いブレザー、黒いズボンに身を包み堂々と行進。欧米と変わらない立派な身なりです。ストックホルムでは運動着で行進した金栗と三島。今回は「JAPAN」のプラカードを持つ金栗、日章旗を持つ主将・野口の東京高等師範学校徒歩部時代からのコンビのあとに燕尾服を着た嘉納治五郎団長ら役員、選手が颯爽とつづきます。

アントワープオリンピック日本選手団

競技開始

競技日程に入ると、熊谷一弥・柏尾誠一郎の庭球を除いては惨敗を繰り返す日本選手団。

水泳・齋藤選手
水泳・齋藤選手。

水泳では、まだクロールなど見たこともない日本人のこと、斎藤兼吉は水府流、内田正練は神伝流、日本古式泳法の抜手で果敢にクロールに立ち向かいますが、とうてい相手にはされずに水の中で涙を流します。

十種競技、スポーツ万能・類い稀なる身体能力の野口主将は百メートル走では一位となって気を吐くも、棒高跳びでは自身がもつ日本記録の3メートルが練習用のバーの高さ。欧米人は次々に軽々と飛び超えてウォーミングアップ。野口はこれを2メートル70まで下げてもらいます。さぞや野口は辛かったろうと思いますが、他国選手は誰一人として野口を軽蔑したりはせずに、スポーツマンシップを見せます。極東チャンピオンの野口でしたが、最終結果は出場十二人中十二位の最下位に沈みます。

大正九年(1920年)八月十八日付東京朝日新聞より
大正九年(1920年)八月十八日付東京朝日新聞より。

日本の期待を一心に背負うマラソン陣は市内を試走、練習に励みます。がしかし、金栗には一抹の不安があります。

アントワープ入りする前、ロンドンで全英選手権を見学。そのときのイギリス代表ミル選手の軽快な走りに刺激され、練習しすぎてしまい、膝に痛みが走ります。このころから長く走ると足のあちこちが痛み出し、慎重に慎重を期してきたつもりの金栗ですが、ここにきて故障を抱えます。
これが本番に出なければよいのだが……

マラソン競技開幕

大正九年(1920年)八月二十二日、マラソン当日の朝、小雨混じりの空を見てマラソンの四選手は皆、苦笑いをします。ストックホルムでは熱波に襲われましたが、この日は夏にしては寒いくらいの気候。「寒さに注意して自分のペースで走れ」と後輩たちに指示します。

スタートライン中央。日の丸の金栗
スタートライン中央、日の丸の金栗。

午後四時十分、スタートラインの中央に陣取り、金栗にとっては八年ぶりの挑戦が始まります。スタートの号砲が鳴り四十人の選手が飛び出してゆきます。42.750キロのコースのあちこちには、クーベルタン男爵が提唱、初めて採用された五大陸を表す五輪旗がはためいています。

五輪旗と金栗
五輪旗と金栗。

いつものように後方で様子を見る日本人選手たちの中から、金栗がスルスルと抜け出してゆき、三十五キロ地点では五位まで上がっています。
きょうは調子がいい。これからが勝負だ
雨の中、ハリマヤの金栗足袋も石畳を着実にとらえています。前方に四位の選手が見え、彼は脇腹を押さえて苦しそうにしています。「あいつも抜けそうだ!」そう思い、無意識にピッチが上がった瞬間、足首を鈍痛が襲います。痛みはふくらはぎ、膝から大腿部へと登ってきます。心配していた故障がとうとう再発。雨と寒気にも襲われ、ついに意識とは裏腹、自由が利かずに、足を引きずるように走ったり、歩いたりして、抜いてきた選手に抜き返され十六位でゴール。

マラソン経過

ゴールライン裏に立ち止まり、後輩たちがゴールしてくるのを見とどけます。茂木善作(東京高師)二十位、八島健三(小樽中)二十一位、三浦弥平(早大)二十四位。敗れてしまったので、おおっぴらには出来ませんが、金栗は、かすかに微笑んでいます。

ストックホルムでは完走できなかった私だが、この子らは初出場で完走している……

金栗は後輩たちが私を超えてくれたのだと思い、自分が負けたのは悔しいけれども、満足の微笑みを浮かべています。

庭球の偉業

庭球の熊谷一弥はシングルスで銀メダル、ダブルスでは柏尾誠一郎と組み、これも銀メダル。皮肉にも軍部が遊戯と決めつけていた庭球が日本初のメダル獲得種目となります。

シングルス決勝を戦う熊谷選手
シングルス決勝を戦う熊谷選手。

ドイツ女性の明るさ

帰路、第一次世界大戦で敗戦国となり、オリンプック出場を許されなかったドイツを視察します。敗戦で国土は崩壊、国民たちは貧困に喘いでいるはずのドイツですが、ご婦人たちが明るく庭球を楽しんでいます。さらに水着を着た母親が子供に水泳を教えています。日本では水着を着ているとはいえ、ご婦人が肌を晒して泳ぐなどとは考えられないこと。そして、女性がスポーツをすること自体、奇異と見られていたこの時代の日本。ご婦人が自分の子供に水泳を教える姿、スポーツに興じる女性の明るさに感銘を覚えます。

きっとドイツは蘇る、このご婦人たちの明るさがある限り……

金栗は女子のスポーツ振興に目覚めてゆきます。

金栗足袋のハリマヤにて

マラソン足袋東京に帰り、大塚ハリマヤの辛作さんに報告に伺います。自分の失敗ですと言うと、辛作も息子の勝蔵も金栗を責めることなく怪我は足袋のせいだと言って、頑として聞きいれません。改良しなければいけないと新たな闘志を燃やします。

「金栗パパ竹早にあり」へとつづく

ハリマヤ足袋発祥の地文京区

走れ「いだてん」トップへ

シェアはご自由にどうぞ。