江戸名所図絵をみると、神楽坂は急坂で階段坂だったようです。
今でも神楽坂の中心である毘沙門天と、今はない高田八幡(穴八幡)のご旅所が目に付きます。
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高田八幡のご旅所で祭礼の際、神楽を奏していたので神楽坂の名がついたといわれています。諸説ありますがだいたい神楽に関係しています。
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浄瑠璃坂の仇討ちの舞台にもなった牛込御門は現在JR飯田駅神楽坂方面出口前で遺構が残っています。
浄瑠璃坂と堀部安兵衛を参照


駅前になにやら文字が彫られた大きな石があります。
「阿波守門」とあり、牛込御門は阿波の国の大名、蜂須賀候の普請だったということがわかります。
日比谷公園にある亀石という石もここから移転されたらしいとのこと。
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牡丹屋敷?
切絵図をみて、はてな?と思うのが神楽坂入口(いまのスタバがあるあたり)の「牡丹屋敷」?
牡丹園か?と思うのですが江戸名所図絵をみても町人地ですが。
調べてみると、ここは、はじめ旗本を廃業した人が牡丹を栽培、まことにキレイだったので牡丹屋敷と呼ばれ、観光地の一つになっていたと。
その後、幾多の変遷の末、土地を町人に貸し出し町人地となったのですが、名前だけが残り牡丹屋敷という地名になったといわれています。
神楽坂は開削後、寺社の引越しラッシュがあり、たくさんのお寺が集まってきました。
毘沙門天も寛政5年(1793年)に麹町から引越してきました。
横寺町には今も多くのお寺さんがあります。

一方、明治の区画整理で引越していったお寺もあります。
切絵図をみると善国寺毘沙門天のお向かいに広い敷地の行元寺(行願寺)があります。
行元寺は鎌倉時代末期からここにあったといいますが、明治の末、目黒へ移転しています。
行元寺の仇討ち
天明3年(1783年)冨吉という農民出身の男が、神楽坂、牛込肴町の行元寺の境内で父の仇を討ち取ったという記録があります。
下総に住む冨吉の父、庄蔵は同じ村の百姓組頭の男と口論になり暴行を受け亡くなった。 息子冨吉は仇討ちを決意し、江戸に出た。神道無念流の道場で、5年間、一心に励み、 神楽坂で仇敵を見つけ行元寺境内に敵を追いつめ本懐を遂げる。 農民出身ではあるが取り調べの結果、仇討ちが認められ、 旗本家に召し抱えられた冨吉は、百石取りの侍になった。
農民が農民を討ったという稀なケースですが、この事件は実録本が出版されるほど人々の関心を集めました。
神道無念流の道場はこれをきっかけに大評判となり門人3000人!を集めるほどになったといいます。

行元寺には仇討ち事件を伝える碑があって、その碑も目黒へ移転しています。
碑文は大田南畝によるものです。

発卯天明陽月八 二人不戴九人誰 同有下田十一口 湛乎無水納無絲 南畝子
なっ、なあんだがわかりません。
それもその筈、仇討ちの隠語碑といわれ、漢文の知識を持っていても訳すのが難しいものらしいです。訳すと、
天明3年10月8日 憎っくき仇は誰か? 討ったもの、冨吉 討たれたもの、甚内 大田南畝
どう訳すとこうなるのかわかりませんが、南畝がこの碑文を書いたのは事件の30数年後の文化期でした。
この頃になると無届出の仇討ちは禁止されているのはもちろん、美化することもご法度。
南畝はお寺から碑文を頼まれたが、自分も幕府の役人だし、
どうしたものかと考え、なかなか解らない文にしたといいます。
南畝自身が説明して初めて意味がわかったとも。
お寺のほうでも観光客は欲しいが、お縄になる訳にはいかないし、近くの金剛寺坂上に住んでいた当代一の文人、天才南畝先生に頼んだのでしょう。
寺内公園

この辺りは、もと行元寺の境内なので、通称「寺内」(じない)と呼ばれました。「寺内」は神楽坂の花街となり、柳家金語楼、勝新太郎などの有名人も住んだところです。
「寺内」には寺内公園があり、ここに行元寺があったことを伝えていますが、仇討ちがあったことはいっていません。
神楽坂で仇討ちがあったなんて意外です。

意外な歴史の神楽坂四部作
神楽坂と光照寺(牛込城跡)
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