ベルリン・オリンピックの中止が決まり、大正五年(1916年)五月、金栗四三は熊本県菊池で徴兵検査を受けます。結果は第一乙種で兵役免除、軍隊入りは見送りとなります。
誰が見ても頑強な体、健康な金栗なのですが?
兄の愛

兄・実次は軍部にはたらきかけます。
「四三は、今、お国のために走っちょります。国民の体力向上は、すなわち、国力増強に繋がるのではないでしょうか」
この頃の軍部は「兵式体操」なるものを奨励する一方、野球、庭球、蹴球、卓球などは遊戯競技と決めつけています。
戦場で走る事、持久力を身につけることは重要と捉え「体の小さな日本人一人ひとりが体力をつければ、体格のよい欧米人に勝つことができる」などと信じる軍部は、日本一有名な陸上選手、金栗四三を利用します。
明治から昭和の戦前戦中の日本国民が、まず第一に考えるのは「天皇陛下とお国のため」。
金栗自身もストックホルム・オリンピックで負けた翌日、日記にこう書いています。
死してなお足らざれども 死は易く 生は難く その恥をすすぐために 粉骨砕身してマラソンの技を磨き もって皇国の威をあげん
兄の弟を想う気持ち、軍の方針、金栗の志は一致。ベルリン大会が中止となった今、自分の夢のためではなく、お国のためにマラソンを全国に普及、国威発揚を使命とします。
教師として赴任
母校、東京高等師範学校の研究科に籍を置いていた金栗ですが、ベルリン大会が中止となっては、いつまでも恩師・嘉納治五郎先生のご厄介になってもいられません。
大正四年(1915年)に神奈川師範学校、翌年の四月には、関口台の獨逸学協会学校(現・獨協中・高校)に赴任します。

獨逸学協会学校は大塚仲町の播磨屋からは音羽通りをはさんで一キロもない近さ。播磨屋の二階に下宿して、マラソン用足袋の開発を二人三脚でつづけます。
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播磨屋の革命
職人とは、親方につき、長い間、下積みを重ねて技術を磨いてゆくものです。自分の作った物に自信を持つあまり、その技に反発されると排他的になったりします。
播磨屋の足袋職人・黒坂辛作もご多分にもれずに、そんな職人カタギのひとりでした……金栗と出会うまでは。
二人でマラソン用の足袋を開発するうちに、辛作は変わってゆきます。
ゴム底の足袋も一応の完成に漕ぎつけ、この頃になると、決してNoとは言わない職人になっています。
もともと、作業用のダボシャツ、ハンダコなども仕立てていたので、ランニングシャツ・パンツなども仕立て、お客が納得するまで仕立て直すものですから、経営は傾くばかり。
辛作の職人魂は、いつしか「お客が納得するまで作り直す事」というものに変わっています。
「金栗さん、今度はどんなことを注文をしてくるかなあ」
と金栗が持ってくる難題を楽しみにしていたりする毎日です。そんなある日のこと、金栗が無理難題を言いだします。
「辛作さん、短くして足首の動きを自由にしたいんですが……それとぉ……コハゼもどうにかなりませんか?いっそのこと、コハゼを廃止するとか」
「はっ?、はぁ?……よっ、ようがす……」
決して無理とは言わない辛作。
辛作の考え方は、足袋で足首まで包み込み、コハゼで留めてホールド感を高めるというものでしたが、足袋が足首までないとホールド感が無くなります。コハゼを取り去るということは西洋の運動靴のように靴ヒモで締めるしかありません。
辛作は決断します。
親指の股だけ残してショートカット、靴ヒモで締め付けホールドを高める足袋へと大幅な変更を加えます。
ゴム底の耐久性ある素材、最適な底裏のミゾ、滑り止めのパターンは金栗が試走して見つけ出してゆきます。
辛作は東京中を奔走、ゴムの成形金型屋、工場を見つけ、ついに進化した足袋が完成します。
「出来たよ、金栗さん。もうほとんど足袋じゃないけどなあ」
と笑う辛作には達成感が満ちています。
金栗の使命・マラソンの普及
関口台の獨逸学協会学校に赴任した金栗は自分に課せられた使命、マラソンの全国普及のため、今で言うランニングプランナーと化しています。
関口台の獨逸学協会学校は、鉄砲坂、鳥尾坂、目白坂などの激坂が連なる高台の上にあります。



自分でもストックホルムの坂では苦労した経験があり、持久力を高めるためには坂がよいのではないか?。教え子たちと走るなか、そう思い、富士登山競走を企画し走破。まさに高地トレーニングのはしりです。

より多くの人々にマラソンを広めるなら、多くが参加可能なチームでリレー形式はどうか?チームの絆・連帯感も生まれ、一人ひとりも努力するのではないか?。

東京奠都五十周年を記念した東海道五拾三次競走(京都〜東京間リレー)を企画、関東チームのアンカーを務め、ぶっちぎりのゴール。
下関〜東京間1200キロ
使命に燃える金栗は止まることを知りません。
マラソンはスピードも持久力も重視するという考えのもと、東京高等師範学校の後輩・秋葉裕之の誘いを受け、大正八年(1919年)七〜八月にかけて、下関〜東京間を20日間1200キロ走破に挑戦します。
朝日新聞社が協賛、各地の支社が宿舎を提供。連日の報道もあり、沿道には多くの見物人が応援。各地のマラソン愛好者が金栗らに伴走します。
二人は辛作さんの新しい進化したマラソン足袋で挑みます。
辛作は「金栗さん、足を痛めないか?足袋は破けずにもってくれるだろうか?」と連日、心配でたまりません。
途中、秋葉は足首が腫れ上がり杖をつくありさま。宿舎で金栗がもう止めてもいいと言うと、
「金栗先生、秋葉はそんな意気地なしとは違います。それにこの計画を言いだしたのは私です。たとえ足が折れても、死んでしまっても……行きつくところまでは行きます!」
と気丈な後輩・秋葉。なんとか回復して必死に食らいついていきます。

悪天候、雨に降られても二人の履く辛作のマラソン足袋は滑らず、着実に悪路を捉えています。

20日目の八月十日、「金栗」「秋葉」の日の丸ネームをつけた二人が伴走者を従えて、宮城前(皇居前)の日比谷公園にあらわれます。見物人の大声援のなか、特設ゴールにゴール。報道陣にモミクチャにされます。


日比谷公園内、松本楼のバルコニーで、あいさつする二人の陰にかくれ、金栗が脱ぎ捨てた汗とほこりにまみれた足袋に頬ずりして泣く姿があります。男泣きに泣く播磨屋の辛作です。
マラソン足袋の勝利
金栗はこの時、20日間1200キロをたった一足の足袋で、破れることも無く、足を痛めることも無く走りきっています。
ストックホルムでは苦杯をなめた足袋ですが、今回は辛作と金栗の勝利です。
金栗と秋葉のコンビは、のちに樺太〜東京間20日間走破も成功させ、走る伝道師となって、マラソンの全国普及に努めています。

師弟対決
大正八年(1919年)十一月、今度は駅伝対ウルトラマラソンを企画します。
東京高等師範学校の後輩五人の一チーム、獨逸学協会学校の教え子十人一チームで三チームを構成。四チームのリレーに対して金栗は単独走破を挑み、日光〜東京間135キロを競争します。
さすがの金栗もリレーチームには完敗。ゴールで待つ後輩、教え子たちの拍手声援に迎えられた金栗には、悔しさなどは微塵も無く、満面の笑顔をたたえています。
「後輩、教え子たちがよくぞここまで育ってくれた」

恩師・嘉納治五郎先生の教えを守りぬき、体育教育の道をひた走る金栗です。

ストックホルム・オリンピック後、ベルリンの中止を経て、マラソン足袋は進化、マラソンは全国に普及、後進たちも着実に育っています。
しかし、辛作が誓った夢は実現していません。
「どんなことをしてもおれの作った足袋で金栗さんを、そして日本の選手を世界の大競争で優勝させてみせる……」
金栗と辛作の挑戦は続いてゆきます。